月別アーカイブ: 2014年10月

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ディスカッションのすすめ ~その1:口論?討論?議論?~

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大学生のころから地元のFM局にお世話になり、番組を担当して、大学院生になった今も続けています。番組名は「More Discussion Club」。”もっとディスカッション・議論をしよう”という主旨で、周りの大学生や大学院生、若手社会人の方と一緒に、社会的なテーマを中心に、あーでもないこーでもない、とディスカッションしています。今日は番組での話を通して気づいたことをシェアしたいと思います。

口論?討論?議論?

私の親世代の方々に”議論”というと、”対立意見に分かれて相手を言い負かす行為”という意味合いで受け取られることが多いです。そして得てして「議論なんかしてもどうせ平行線で、何も解決しない」という言葉を添えられることが多い。この”相手を言い負かす”こと、平たく言えば口喧嘩が、日本における議論のイメージなんだ、と色々なところで実感します。

口論(英:quarrel)は、文字通り口喧嘩です。論理的であろうがなかろうが、言葉で言い争うこと、これを口論といいます。
討論(英:debate)は、対立意見に分かれて論理的に意見を闘わせることです。ディベートは言葉のスポーツとも言われます。高校生のディベート甲子園は有名ですね。
議論は、いくつかの意味をもつ言葉で、上の「ディベート」という意味で使われたり、国会で行われているような「議決」のことを指したり、あるいはこの記事のテーマでもある「ディスカッション」あるいは対話のことを指したり、と文脈によって意味が変わる言葉です。

日常会話で「対話」という言葉を使うことは極めて少ないですね。対立意見をもつ人達が、その不和を乗り越えてフェアな話し合いを試みる、というニュアンスが強い気がします。めったなことじゃ使わない。この「意見が異なる人達のフェアで自由な話し合い」は、私たちの生活環境にはあまりなじみがないんです。

「あなたのことは好きだけど、言っていることは間違っていると思う」と言うこと、結構難しいんですね。その理由は色々な本に書いていますが、平たく言うと「同じ意見=味方、違う意見=敵」という考え方が広く浸透している、という見解が多いですね。なかなか対立意見を「普通に」交換するのは難しい。だから議論というとほとんどの場合が討論で、しかも論理と感情を明確に分けて考える習慣がないから、討論と口論もほとんど同義で、「~論」というものは「対立」のイメージがあり、あまりポジティブには捉えられない。そんな気がします。

この記事のテーマでもある「ディスカッション」はとても建設的で有意義な行為です。それこそフェアだし、喧嘩じゃない。その話し合いに参加する全ての人にとって「よりよい妥協点」を目指す。今の社会にとっても必要なことだと思います。次回はこの「ディスカッション」について、色々な側面から考えてみたいと思います。

輝くテニス界。あの頃は若かった!そして今はビジネスへ。

最近の日本テニス界、すこぶる輝いてますよね。
私がテニスを始めたころは、テニスといえば女性のスポーツといった印象がちらほらあったように思います。

何事もなんかしらのきっかけから始まる


テニスを始めたきっかけは、
「個人競技で優勝したい!」
と思った中学入学期の1985年あたり。

しかし、、、無知でした。。
「ソフトテニスにはシングルスがない?!?!」

そう、それまで野球に明け暮れたおバカな私は、誰も注目していないこの競技ならテッペンとれるかも!?なんて安易な夢を描いていたのですね。
まーなんとおバカ。。

男子6人、女子20人ほどのテニス部に入り、まぁ肩身の狭いこと。。
とはいえ、持ち前の運動神経の良さ(今は不問・・)で新人戦では鹿児島ブロックで準優勝などしてしまうわけです。

きっかけはなんであれ、火が付きました(ゴォ〜〜〜メラメラ!)

それからテニス雑誌を買っては当時のプロテニスプレーヤーのフォームを真似るわけです。

名プレイヤーに真似てみる!


80年代のテニスは本当に面白かった。
役者が揃ってましたね。

男子では、アガシ、ベッカー、サンプラス、マッケンロー、レンドル、チャンetc.
女子は、ナブラチロワ、エバート、セレシュ、サンチェス、サバティーニetc.

中でも注目したのはこの2人。

ステファン・エドバーグ(通称エドベリ)
シュテフィ・グラフ


グラフは強かった。。
永遠に続くんじゃないか?!って思わせる圧巻の377週通算世界ランク1位。
特に、87年の全仏オープン。
ナブラチロワとの一戦は、千代の富士対貴乃花戦のようななんとも印象に残る感動した試合でした。
彼女のオープンスタンスで切るフォアハンドをよく真似たものです。
結果、基本がなおざりになりオリジナルフォームにw


一方のエドベリ。
「スウェーデンの貴公子」と称された彼は、まぁ女性に大人気。
プレースタイルも当時のライバルであったベッカーやレンドルとは対照的にしなやか。
(暴れん坊のマッケンローとは敢えて比較しないw)
いつも世界ランク3位前後を行ったり来たりってのも私的には期待値を持っていられる名選手でしたね。
彼のサービスは腰をグリッ!と折り曲げ、力強くはないけれどなんとも綺麗。
それを真似た結果、肩を故障し、腰はぎっくり腰に。。w

http://youtu.be/G2rEWnC5NNw
(引用元:youtube)

「龍の物語」にみる成功への道しるべ


私は占いや占星術なるものに特段の興味は持ってません。
ただ、易経にある「龍の物語」は、人生を生きるうえでの指標としています。

地に潜み隠れていた龍が、もろもろの過程を経て、大空に昇り飛龍になって、やがて衰退していくという物語。

易経は帝王学の書として発展するわけですが、天下を治める長になるまでの変遷のプロセスは自分を俯瞰し、自分の位置を知る上で参考になります。

なぜ突然その話?って思いますよね。

いえ、特に深い意味はないんですけど、
先に挙げた往年の名プレイヤーも天下を取るために、

・志を立て(潜龍)
・真似て(見龍)
・技を磨き(乾てき)
・志を忘れず、力を呼び起こし(踊龍)
・価値ある影響を与える(飛龍)
・そしてそれぞれの終焉を迎える(亢龍)


こういった過程を経ているのだと思うのです。

これはテニスに限らず、ビジネスでも同じこと。

明確な目標と目的意識をもって、価値あるなにかを多くの人に示し、共有したいものです。

さて、私も初心にかえり今日も一日目標に向かって進みます。
この写真を友人から久しぶりに送ってもらいそう思ったのでした。
(大学1年かな?の頃w悪友と共に。)

tennis

ということで宣誓します!

「テニスを再開します!」

ではごきげんよう!

hiria2

リア充・非リア充

hiria

昨日私が長崎でやっているラジオ番組の打ち合わせで、表題の「リア充・非リア充」について話しました。

リア充(ウィキペディア 一部抜粋)

リア充(リアじゅう)とは、リアル(現実)の生活が充実している人物を指す2ちゃんねる発祥のインターネットスラングで、若者言葉でもある。概念自体は2005年頃に2ちゃんねるの大学生活板で成立しリアル充実組と呼ばれていたが、2006年初頭に今のリア充の形として使われ始めた。当初は、インターネット上のコミュニティに入り浸る者が、現実生活が充実していないことを自虐的に表現するための対語的造語だった。その後、このニュアンスは、携帯電話を介したネットの利用者たちが流入するにつれ、彼らの恋愛や仕事の充実ぶりに対する妬みへと変化していった。


非リア充(ニコニコ大百科 一部抜粋)

非リア充(略称:非リア)とは、恋愛や仕事などの現実生活(リアル生活)が充実していない人間のこと。または、非リアル生活が充実している人間のこと。対義語はリア充。ネットやマルチメディア鑑賞、ゲームなどのオタク系趣味を好む傾向があり、リア充への嫉妬に似た嫌悪感を抱いていることが多い。コミュニケーション能力に乏しいなど何らかの理由で現実における対人活動を避けるが、一律に根暗や人嫌いというわけではなく、ネット上における対人活動(主に匿名)は通常にこなせるケースが殆どである。


私が大学でやっているサークルには、大学生、大学院生、留学生、若手社会人が集まります。そこで色んなテーマを、ああでもないこうでもないとディスカッションし、一部ラジオやYouTubeの番組として収録します。世代的にも、この話題はとても盛り上がる話題でした。インターネットが普及し、テクノロジーが進歩して、”バーチャル”リアリティーの”バーチャル”が全然虚ろではなくなってきている中、現実世界での成功を大切としない、という考え方が市民権を得ています。まだまだ”リアルを大切にする”考え方と比べて等価とはいえない扱いですが、ネットワークとテクノロジーがもっともっと進歩すれば、未来はどうなるかわかりません。

私たちの世代は既に、「バーチャルの心地よさ」を知っています。社会的成功も革命も、恋愛も結婚も、闘・食・性すべての成果が、疑似的にですが、比較的簡単に手に入ります。しかもそのソフトの数たるや無限ともいえるほどで、一生かかっても経験しつくせないくらいの疑似体験が、毎日のように世に出され、刺激的に更新され続けています。

仕事は苦痛、勉強は苦痛、人間関係も苦痛・・なぜなら思い通りにならないから。それを変えようとすれば努力が必要だし、努力したからといって必ず報われるわけではない。他に選択肢がなかった時代は、その結果を受け入れざるを得なかったけれど、今は時間と労力さえかければ必ず報われる世界がある。どうしてそれを生活の第一に置かないことがあろうか。

こういう風に考えることは、私たちの世代なら、「了解可能」なはずです。しかし、これを「リアルを大事にする考え方と等価の選択肢」と言ってしまうと、競争社会は回らなくなる。かといって、膨張するこの市場を否定するわけにはいかない。そういうジレンマが社会にもあるはずです。当の本人はというと、「リアルが大切だ」というのを第一としつつも、第二の世界をしっかり大切にしている。ちょうど江戸時代の隠れキリシタンのようなものでしょうか。

リアルだけで生きて、勝者と敗者に分かれる。
リアルを第一として、バーチャルを第二とする。リアルでうまくいかなくても、バーチャルでうまくいく。
リアルでの生活は、はなっからあきらめて、バーチャルでの生活を第一とする。

色んな生き方があります。どれが一番いいのか。答えは出ないかもしれません。
次回はさらにつっこんで、この問題を取り上げたいと思います。

茅野龍馬

Web制作系でうまくいかないアルアル。そりゃそうでしょ。

今日はお仕事絡みのおはなし。

Web制作、開発、運用を生業とする小生。
たまにこんな言葉を聞く事があります。

「難しいこと分からないから、任せるよ。」


まぁ世間を見るとうちの業界のみではなく、よくあるあるな言葉ですわね。
保険契約、通信系契約、まぁよくもこんな小さな文字で何ページも何ページも。。
そんなん理解できんから、「もぉ〜あんたに任せるわっ にこっ」

ちょっと待っておくんなさい!お客様っっ。

そう、ご想像に易く、だいたいこういったケースは

・制作、開発工数超過
  ★心理:制作会社は悩みまくる・・、暗くなる
・コストの圧迫(赤字)
  ★心理:担当者はハゲる・・
・要件の後追い積み上げ
  ★心理:ストレスのボルテージMAX、海に叫ぶ
  例:「任せたけど、やっぱりここはこうしてよ!」
  例:「この機能追加できるでしょ?大した作業じゃなさそうだし。」
・ローンチ後の追加改修
  ★心理:お客様、制作会社ともにぎくしゃく
・運用の破綻

そして、
・作ったはいいけれど。。。
となるわけですわな。

さて、問題はどこにあると思いますか?


私の持論ですが、この問題は発注者、受注者双方にあります。

まず、発注者の問題点
ズバリ、懐深いパフォーマンスは無用でございます。
こころの入っていない成果物に振り向く人なんておらしません。

次、受注者の問題点
ズバリ、受けちゃいかんでしょ。
責任、そう説明責任からの共有理解&納得までコンコンとやる必要あるでしょうよ。

たしかにWebの世界って横文字が多くてその文字の理解を追いかけるだけでハードル高めに感じますよね。
そして、「あーわからん、この人分かってそうだから任せようかなー」なんて。

長々と話すのもなんなんで、今日は早めに結びます。

基本的に大事なのは「同程度の目線の高さ」


発注者、受注者ともに目的を明確に、ゴールを同じ温度感と理解で追求する。
それをそれぞれの立場で相互補助的に積み重ねていく作業が必要。

平たく言うとそんなとこでしょうか。

最後に、ちょっと例え話を。(弁護士編)


あなたは、他人と揉めてしまって、どうしても弁護士に相談しないといけなくなりました。
さて、弁護士さんに「なんか難しいから、任せるよ」。
それで受ける弁護士さんいるのかしら?
受けれないですよね?
背景と目的が見えないと、その解決方法すら引き出せないんですから。

そう、そういうことを言いたかったんです。

一緒に、◯◯(←皆さんの目的を入れてください)を産んでくれるWeb戦略を同じ目線で施策しましょ^^

最後に宣伝です 笑


あ、最後に、当社のコーポレートサイト、リニューアルしました〜^^
社内でみんなそれぞれの得意分野を生かして、同じ目線でコンコンと作ってますー。
(まだまだ表にでていないコンテンツが潜んでいるので乞うご期待!)
https://cocolabo.co.jp/
cocolabo


written by 岩下正法(ここらぼ代表)

古典

古典を読む楽しさ

古典

歴史の試練をくぐり抜けたベストセラー

中学生のころ、古文漢文の授業が始まって以来、古典の魅力にとりつかれ、色々と読んできました。我が家の本棚には、仕事で使う専門書とともに、たくさんの古典が並んでいます。何度読んでも飽きない、心の内側から感動する、という作品が数多くあり、毎日様々なことを学ばせてもらっています。

書店の店先には、そのとき人気のある作家のベストセラーが展示してあり、流行に応じて変わっていきます。一週間だけ並ぶものもあれば、一ヶ月のものもある。その後はというと、ほとんどが姿を消し、一部ジャンル分けされたコーナーや作家別のコーナーに続けて展示される。数年前にもてはやされた作家を、今は全く見かけなくなった、なんてことも少なくありません。最近は、純粋な文学作品よりも、自己啓発本やドキュメンタリーなどがベストセラーとして紹介されることが多いようです。そしてその多くは数ヶ月単位で姿を消す。次々に新しい作品が店頭に並び、消費されていく。「長く残る」というのは、それだけでとても大変だと感じます。

そういう意味で、古典はとてつもないベストセラーだと言えます。数百年・数千年読まれ続けている作品です。歴史の中で何人の手に取られ、読まれたか、想像しただけで圧倒されます。現代にいたっても、毎年一定数の人が新しくその本を購入し、色々な場所、例えばこういったブログなどでも度々引用される。さすがだな、と感じます。

私も古典を読む中で、その「普遍的価値」に度々勉強させられます。日本の古典だと、例えば枕草子や徒然草などは、物事の善し悪しのセンスを養ってくれますし、漢籍だと老子・荘子、四書(大学・中庸・論語・孟子)などは、大抵の悩み事に解決の糸口をくれるし、武経七書(孫子・呉子・六韜など)には処世の知恵がたくさんつまっています。

そうはいっても・・

面白い古典を買って読んでいるうちに、読みたい古典がたまっていき、なかなか現代の書籍を読む時間がつくれない、という状況が続いています。でもそれじゃあいけないと思っています。なぜなら、古典が古典として存在しているのは、それが書かれたころの人達がそれを愛し、それをその時代のベストセラーにしたからです。

よい作品を「残す」のは、その時代の人、現代なら現代人です。そういう意識をもって、古典を読み、今の書物を読む。歴史の連続性の中で豊かな人生を送るのは、簡単じゃないですね。

茅野龍馬

20141017紅葉

見える化から最適化へ。クイズ(初級編)です!

アクセス解析やってます?


やっぱりゴルフはファッションも大事。
そんな大阪の次郎さんは、とある祝日の昼下がり、それ系のファッションサイトAを見ていました。

 ▶午前11時からの30分間連続でじっくりと。
 ▶閲覧ページ数=9ページ

かたや、久しぶりに長崎に帰ってきた龍馬さん
次郎さんに負けまいと、たまたま同じファッションサイトAをみていました。

 ▶午前11時半から30分間
 ▶閲覧ページ数=5ページ

途中、来客があり
 ▶1時間ほど離席

戻ってから再度同じサイトにアクセス
 ▶午後12時半から20分間

途中10分間電話対応などしつつも、
 ▶閲覧ページ数=8ページ

さて、ここで問題です!


次郎さんと龍馬さんに限定して、ファッションサイトAのアクセス解析(Google Analytics利用)をした場合、
ファッションサイトAの、
Q1.全体のページビュー(PV)数は?
Q2.平均PV数は?
Q3.セッション数は?
Q4.ユニークユーザ(UU)数は?

アクセス解析を行う目的は何か?


141014

大様にして、
・運用サイトの現状把握
・広告効果測定
そういったところでしょう。

属に言う「見える化」ってやつです。

しかし私見ですけど、データが見えたところで、それを発展的に活用しないと無駄ですよね。
そのデータを見て、まとめるだけでも人の手がかかります。人件費です。
折角投資するなら、なんかしらの見返り、リターンまで追求してみませんか?

重要なのは、
「運用サイトと成果(コンバージョン)の最適化意識」
を持つ事です。

運用サイトの分析、それだけでは「利益」はでません。
分析結果に基づいた、検証や仮説を立てたうえで戦略的意思決定をし、やってみる。
そうして初めて利益につながるものです。

さて、答えとまとめです


A1. 22
A2. 11
A3. 3(次郎さん1,龍馬さん2)
※Google Analyticsの場合30分以内に再訪問した場合は、セッションが継続しているとみなされます
A4. 2(次郎さん+龍馬さん)

これは基本的な一部のデータを「見える化」したに過ぎません。
さて、あなたがWeb担当者なら、いかに最適化するための施策をうちますか?

ほんの一部の紹介ですが、Webを最大限に生かすための思考のスイッチになることを期待しつつ、
今宵も御機嫌ようです^^

written by 岩下正法(ここらぼ株式会社

クオリティの下限

人間味が薄れていく飲食店のサービス

今日は”クオリティの下限”について考えたいと思います。きっかけは先日の食事です。たまたま普段行くお店が休みだったので、近くの居酒屋チェーン店に入りました。飲み物を2杯と食べ物を3品ほど注文して、決して味が美味しくなかったわけではないのですが、気になったのはその”サービス”でした。

ゆび
注文があるときにボタンを押して店員さんを呼ぶシステム、今では日本中至る所にあるそうです。このお店も同様のシステムを導入していました。ボタンを押すと掲示板に番号が表示されて、それに気づいた店員さんが表示準に対応していく、というものです。

一見合理的なこのシステムですが、私はとても違和感を感じました。そのお店、個室というか仕切りのあるスペースが多いわけではありません。見通しのよい店内にテーブルが6個ほど、生け簀を囲んでカウンターが10席ほどあり、数名のホール係が常時待機しています。普通に手をあげて合図すれば気づくような店の構造です。にも関わらずボタンシステムを導入している。

そこでそのホール係の方々は何をしているかというと、ただただボタンの音に反応して注文を聞き、完成した料理・飲み物をテーブルまで運搬する、というものでした。ホールでの顧客の状況には全く興味がない様子で、運搬作業・注文確認時以外は、終始ホール係同士で雑談している、という状況でした。

そんな中、こういう経験をしました。私が箸を落としたので「すいません」と店員さんを呼んだところ、「ボタンを押してください。順番に対応します」とのこと。刺身と油物とを注文していたので、取り皿を変えてほしい、ということをお願いしたときも同様の対応でした。

私はこのとき、何ともいえない違和感を覚えました。「一体何のためのボタンなのか」と感じたのです。本来、ホールあるいは客室係の仕事は、顧客の機微に対応し、顧客が満足のいく時間を過ごすサポートをすることだと、大まかに言えます。そこで例えば伝統ある料亭などでは、客室ごとに客室係が待機し、声や合図などで反応して、その要望に対応します。そんなマンパワーはどこにでもあるわけではなく、一般的な飲食店では、限られた人数での接客をします。そういう中「個室空間」をウリにする飲食店は、平均的予算の範囲内で個室空間と迅速な対応とを何とか両立させるため、ボタンシステムを導入していると聞きます。また、「低価格」をウリにする店は、広い店内スペースを少ない人員で回して、人件費を浮かし、パターン化されたメニューを大量生産大量消費することで低価格を実現しています。こういうお店も、永遠に店員が回ってこない、なんていう事態を避けるためボタンシステムを導入していると聞きます。


それもまた「しょうがない」と言ってしまう

こういうシステムは、本来の「人間らしいサービス」を「価格」や「効率」のために犠牲にしているもの、と言うことができると思います。日本の社会の面白いところ(ユニークなところ)は、諸外国と異なり、これがむしろひとつの「あたり前」になってきていることです。人間味のないサービスが社会に浸透していった背景には、社会のコミュニティが破綻し、コミュニケーションが苦手になる人達が増えていることがあります。そういう中、むしろその「人間的やりとり」を重視しない傾向がかなりの範囲で広がっていると言えます。例えばファミレスなどでは店員さんとは目も合わせず、ボタンで呼んで、メニューをただ読み、注文する。店員は店員でそれを機械的に記録し、機械的に復唱する。アイコンタクトの一切ないやり取りで注文が完了し、一定時間で料理がテーブルに届く。こういう光景はもはや珍しくないものになりました。すなわちこの「機械的やりとり」がひとつの「マジョリティ」となって市民権を得てしまったわけです。

そして前述のようなお店でも、そういうサービスがあたり前になってしまっている。十分目が行き届く店内に、十分な数のホールがいて、値段も安くない。しかしボタンシステムを導入していて、接客はファミレスのアルバイトとほとんど大差ない、という状況です。値段はそのままに、ただ接客の質を落とす。そういうことが、全国的に起こっているように感じます。

この違和感を周囲の友人に話すと、反応は半々で、半分は共感をしてくれますが、もう半分は「そんなもんでしょ」「しょうがない」という反応です。サービスを選ぶ側として、「これ以上は譲れない」という感覚が薄いように感じます。ヨーロッパに行くと、ホールはホールをマネージ(管理・運営)するのが仕事、という感覚が根強いです。だから、アルバイトであれ何であれ、ホールで仕事をする以上はそのホールの責任は自分がもっている、という雰囲気があります。実際日本のこの状況を説明すると、10名中10名が、「それはサービスじゃないね」と答えます。「自分だったら絶対行かない」という人が、私の周りには多いです。

この「クオリティの下限」の問題、実はもっともっと深く社会全体に浸透していて、飲食店でのサービスに留まりません。「バター風マーガリン」「手打ち風そば」「手作り風弁当」「果汁0%のオレンジジュース」など、例をあげればきりがないのですが、例えばフランスと比べると、日本の社会がいかにこの問題に無頓着か、ということがわかります。「価格」「効率」を追求し、「見せかけ」を多様することが社会全体のクオリティ意識を下げることになる、ということを自覚し、きちんと規制する、というスタイルをとっている国として、フランスは有名です。

この話題についてはまた日を改めて共有したいと思います。

拝啓G様〜和敬清寂への誘い〜

時として不愉快な気分になることがある。

久々の実家に帰省しようと九州新幹線に乗り込む。
連休前ということもあって、家族で南へ向かう笑顔あり、金髪の美女が旅行ガイドをみる姿あり、
観光とは関係なくスーツ姿で仕事に向かう者あり。
まぁ、社内はお弁当の匂いが空腹の私を刺激します。

私の席はD席。
ギリギリで乗り込んだので通路側の席にはスーツ姿のご年配がお座りになっております。

年齢は70歳をお過ぎでしょうか。
濃紺のスーツに白髪、眼鏡。
靴は磨かれている。

はい、社会的地位もあられるようなお人なりにござざいます。
これからGと呼びます。
(ジェンドルマンのGとでもw)

私「隣私の席でして、通していただけますか?すみません。」
G「・・・・・」
私「あのーすいません、通していただけますか?」
G「・・・・・(少し腰を引き、動線が3センチ広くなる)」
私「荷物があるので恐れ入ります、少しだけ立っていただけませんか?」
G「・・・・・(目が合う。しかし動かない)」


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結局、私の重い荷物は、私の腕力により宙に浮かび、Gの太ももの上、眼鏡の前10センチほどの距離を通過し、
シート前の空間に、ドン!と着地するのでした。

拝啓

暑い夏も過ぎ、秋さんまの美味しい季節がやってまいりました。
Gさま、いかがお過ごしですか?

その節は、
言葉も交わすことなく、一瞬目があったにせよそこに暖かみは感じられず、
私は悲しゅうございましたよ。

いえ、怒ってはおりません。
不愉快にはなりましたけど。

そう、あなたさまの身なりからは想像できないお振る舞いに、素直がっかりしてしまったのでございます。

私もできた人間ではまだまだございません。
しかし、人と人の関係性で成り立つこの世の中、気持ちよく過ごしたいものでございます。

そして年配の者は、後輩の者に対して行動規範となるべきにございませんでしょうか。

Gさま、お疲れだったのでしょうか。
でもですね、今日の態度は落第点とさせていただきます。

1つよい言葉をお送りさせていただきます。

和敬清寂。お調べください。

追伸:
足、そんなに広げたらワゴンサービスのスタッフが通路を通れませんよ。
ちょっとの思いやりに気付けるかどうかで人生の価値はかわると思いますよ。

敬具


こうしてまた、人のあるべき姿を考えてしまったわけです。

では、御機嫌よう。

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山之口貘

山之口貘

高田渡に引き続き、今度は詩人の紹介をしたいと思います。山之口貘という沖縄出身の詩人です。ずいぶん昔の人なんですが、高田渡の歌にはこの人の詩を歌ったものが少なくありません。

芸術は素晴らしい、としみじみ思うのは、先日引用した草枕で夏目漱石がいっていたように、世のしがらみをひと時離れて、本質と向き合うことができるからだなあと感じます。


座蒲団   

土の上には床がある
床の上には畳がある
畳の上にあるのが座蒲団でその上にあるのが楽という
楽の上にはなんにもないのであろうか
どうぞおしきなさいとすすめられて
楽に座ったさびしさよ
土の世界をはるかに見下ろしているように
住み馴れぬ世界がさびしいよ

〜詩集『思辨の苑』1938(昭和13)年より〜


生活に困っていた時期の多い彼は、その様子を隠すことなく、身の丈でたくさんの詩を書いています。芸術で暮らすのは簡単ではなく、時代のせいもあって、浮浪者として16年間暮らしていたそうです。しかしその間片時も詩を書くことはやめなかったと言います。そんな彼が、座布団の上に座るとき、こういうことを考える。私たちの生活にも似たようなことが言えるのではないか、そう感じます。


借金を背負って(1951年)

借りた金はすでに
じゅうまんえんを越えて来た
これらの金をぼくに
貸してくれた人々は色々で
なかには期限つきの条件のもあり
いつでもいいよと言ったのもあり
あずかりものを貸してあげるのだから
なるべく早く返してもらいたいと言ったのや
返すなんてそんなことなど
お気にされては困ると言うのもあったのだ
いずれにしても
背負って歩いていると
重たくなるのが借金なのだ
その日ばくは背負った借金のことを
じゅうまんだろうがなんじゅうまんだろうが
一挙に返済したくなったような
さっぱりしたい衝動にかられたのだ
ところが例によって
その日にまた一文もないので
借金を背負ったまま
借りに出かけたのだ


読んだらそのまま情景が分かる。すごく深刻で大変な状況なのが見て取れるんだけれども、詩を読むと、彼の精神は荒んでいない。貧乏でも金持ちでも、借金があってもなくても、土の上でも座布団の上でも、山之口貘はそのまんま山之口貘なんだと、彼の人間を感じます。

そのまんまは難しい

「そのまんまでいいよ」という本を中学生のころに読んだことがあります。ブッタとシッタカブッタという4コママンガのシリーズです。
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このマンガはとっても面白くて、何度読み返してもためになる。今も私の実家の本棚には3部シリーズが全部置いてあります。ブッダを模したブタこと「ブッタ」が、悩めるブタ「シッタカブッタ」と一緒に人生の悩み事を色々考える本です。

色々な名言が飛び交います。

自分の価値を押し付けるブタ

「勉強しなさい! いっぱい勉強していい学校へ入って いい会社にはいるのよ!」
「それからどうするの?」
「また、がんばって、エラくなるのよ」
「エラくなったら、どうなるの?」
「お金もちになったりして、シアワセになるのよ」
「シアワセって、そんなに先にいかなきゃないの?」



本当のボクという言いわけ

「本当のボクをみんなわかってくれない・・・」
「本当のあんたってどこにいるの?」



不幸を消す

幸福と不幸を2つに分けることをやめると 
不幸は消える 
ただ幸福も消えるけどね



振り返ると、色んな人が色んな言葉で、ありのままの大切さ、価値に多様性を持たせることの大切さを語ってきた(今この瞬間もたくさんの言葉が発されている)と感じます。あらそいごとの根っこには、「受け入れないこと」があります。どう頑張ったって受け入れ難いものもありますが、よく考えるとそれはごくごくわずかな気がします。自分のしてきた「あらそいごと」を振り返ると、何とまあ心の狭いこと、と思うことも少なくありません。もちろん文化ってのは、受け入れられるものとそうでないものを複雑に紡いできた歴史でもありますから、多様であればいいってわけでもないのですが・・

今日は最後に老子の二章を引用して終わります。

天下皆知美之爲美。斯惡已。
皆知善之爲善。斯不善已。
故有無相生、難易相成、長短相形、
高下相傾、音聲相和、前後相隨。
是以聖人、處無爲之事、行不言之教。
萬物作焉而不辭、生而不有、
爲而不恃、功成而弗居。
夫唯弗居、是以不去。

天下みな美の美たるを知るも、これ悪のみ。
みな善の善たるを知るも、これ不善のみ。
故(まこと)に有と無と相生じ、難と易と相成り、
長と短と相形(あらわ)れ、高と下と相傾き、
音と声と相和し、前と後相随(したが)う。
ここを以て聖人は、無為の事に処(お)り、
不言(ふげん)の教えを行なう。
万物ここに作(おこ)るも而(しか)も辞(ことば)せず、
生じるも而も有とせず、為すも而も恃(たの)まず、
功成るも而も居らず。
夫れ唯だ居らず、ここを以って去らず。

40にして思ふ。人のあるべき姿とは?

人生は長いもの。
そう感じ始めたのは40歳を越えてからでしょうか。

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生き方と生き様が人年輪になる


この年齢になると不思議と若い頃感じていたような、他人との年齢差は気にならなくなります。
むしろ、他人の生き方、そうですね“年輪”とでも言いましょうか、そっちの方を意識します。

街中を歩けば、当然いろんな年代の方とすれ違います。
綺麗な身なりで大口のサングラスをかけ、颯爽と歩く綺麗な女性。
短髪で見た目いかつそうだけれども、お年寄りに優しい笑顔で対応する男性。
腰は曲がってしまって自動販売機の釣り銭を漁る老女。

人生には生き方があり、その生き様が年輪として実年齢を無にして社会と同調します。

そういう目線でせっかく与えられたこの時間を見つめ直すと、
やはり「人のあるべき姿ってなんだ?」とか考える瞬間があるわけです。

孔子にみる人生観


孔子亡き後、その弟子達が生前交わした言葉をまとめた論語。
全20編からなるその為政第二にこんな言葉があります。

子曰く、
吾れ十有五にして学に志ざす。
三十にして立つ。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳従う。
七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず。


聞いたことありますよね。

ちょっと訳すとこうなります。

孔子は言います。私は、
十五の時に学問で身を立てようと決心しました。
三十の時に、学問などの基礎がきちっとして、独り立ちができるようになりました。
四十の時に、狭い見方に捕らわれることなく、心の迷いがなくなりました。
五十の時に、天が自分自身に与えた使命を自覚しました。
六十の時に、何を聞いても素直に受け入れることができるようになりました。
私は、七十の時に、自分がしたいと思う言動をしても、人の道を踏み外すことがなくなりました。

人生の第3クォーターに入って〜和敬清寂〜


私は人生を80年で捉え、20歳区切りで考えるようにしています。
ということは今は第3クォーターに入ったところです。

孔子に会えるものなら言葉を交わして振り返りと先の生き方を熟考したいものですが、そうはいきません。

であれば、自ら設計するのみです。

好きな言葉があります。「和敬清寂」
乱暴に要約すると、
・和を尊び
・人を敬い
・自らを清め
・寂然不動に構える


そんなことを考える珈琲ブレイクの時間でした。

※和敬清寂について詳しく知りたい方はこちらから(©おてらいふ)

せっかくもらった人としての人生。せっかくなら太く生きてみよう!
では、ごきげんよう!