1174932_375438162587642_207199001_n
前回は口論・討論・議論・対話・ディベート・ディスカッションなど、言葉の意味にフォーカスをあてました。「同じ意見=味方」「違う意見=敵」と考えてしまいがちな私たちですが、それじゃあなかなかうまくいかないことも多い。様々な情報が入り乱れ、人も物も情報もどんどん動いていくこの社会で「自分らしく」生きるっていうのは大変です。どうしても誰かに頼りたくなったり、何かにすがりたくなる。そういう中で、”知恵を交換”し、”一緒によりよい解を探す”という「ディスカッション」は、自分自身に嘘をつかず、それでいて偏屈にもならないために、とても建設的で有用だ、と常々思います。

でも、なかなか日常生活の中には機会がないものです。今日は「私たちはどうしてディスカッションが苦手なのか」ということについて触れたいと思います。

真実なんてそう簡単にわかるもんじゃない

「何かを語る」ということ、ごくごく自然で日常の行為だと思われていますが、ここに「人前で」という前置きがつくと、一気に非日常の行為になってしまいます。一体その違いは何なんでしょうか。

欧米では、「言葉は人に伝えてなんぼ」という感覚が強く、少人数での話し合いの中の発言も、大勢の前での発言も「中身は一緒」で、と「せっかく話すんだからたくさんの人に聞いてもらおう」という感覚もそんなに珍しいものではありません。

一方我々は、少人数での”クローズド”な話し合いで結構いい意見を言っている人も、いざそれを大勢の前で発表しよう、となると、言うことが変わるわけではないのに、「私なんかが発言するなんて・・」「人前で話せるようなことでは・・」と、人前で話すことを「チャンス」ではなく「苦痛」と捉える人が多いようです。

また、自分は発言をしないけれど、人の発言には厳しい、という人が少なからずいます。そして口癖が「空気読め」。よく目にする光景ですね。こういったあり方を「日本人気質」と呼ぶことも多く耳にしますが、外国で育った日本人の方の多くがそうでないことや、職場や学校によってはそうでない方もいることを考慮すると、遺伝的なものではないようですね。やはり社会的に、そう考えるよう、そう振る舞うよう、教育・感化してきた結果としての気質のようです。

誤解をおそれずに言うと、「人前で発言するのはとても大変なこと」「大変だからこそそれを上手くやると得られるものも大きい」「だから大したことが言えない奴は調子にのって発言なんかしちゃいけない」という感覚がかなり広く共有されている。多くの人は「聴衆」であり、「発言者」が受け入れられれば、「聴衆」「支持者」となって、「発言者」「何者か」になります。受け入れられなければ「慢心した愚か者」となり、ややもすれば「村八分」の扱いを受ける。

だからこそ私たちは、「自分の意見を言う」ことに関して、とってもとっても慎重で、そして「発言するからにはそう簡単には変えられない」という気質が強いようです(こういう気質の成り立ちについては、言霊だとか階級社会だとか色々な説明がなされていますが、今日はそれには触れません。結果として今私たちがそれを感じていることに着目します。)。発言する側はそう考えるし、聴衆もそう考える、その阿吽の呼吸によって、前述の「空気」が成立する。その「空気」が、色々な媒体によって流布し、共有される。

だから発言者にミスは許されないし、聴衆は論戦を好む。「議論=討論=口論」という等式が成立してしまう。発言者は、発言した内容を変えないだけの見識が求められるし、彼/彼女が「真実」を言っていると主張しなければならない。大変です。人の話を聞く余裕もない。

ディスカッションをするときのキーワードは、「真実なんて簡単にはわからない」ということです。だから相手の話を聞くし、自分の意見も振り返って考えるんです。

記事の見出しの写真は、私の愛読書、西部邁「知性の構造」です。”考える”ことの教科書のような、名著です。機会があればぜひ一読をおすすめします。
次回は「ディスカッション」の姿勢やちょっとした工夫について紹介したいと思います。