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ディスカッションのすすめ~終わりに:私たちと社会の距離~

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政治は自然科学ではない

写真に紹介している、「今日の政治的関心(田中美知太郎著)」にある言葉です。
よく政治や社会についてのテレビ番組を見ると、「専門家」と呼ばれる人たちが登場して、それぞれの学説や見解を紹介します。一応考える主体は私たちのはずで、専門家の意見はあくまでも参考なのですが、どうも私たちは「専門家」を特別視しすぎている気がします。「専門家はその道については何でも知っていて、従って発言は全て真実である。そうでなければペテン師である」というような・・誤解をおそれずに言うなら、彼らをその道についての「予言者」「預言者」のような扱いをし、当たればもてはやし、外れればこき下ろす、というような感覚を私たちは持っているように思います。

科学の発達の伴って、何にでも答えがあると考える傾向が強くなっています。しかし再現性の高い学問である自然科学でさえ、未来はそう簡単に予測できません。これが政治となると、未来をピタリと当てることなんかできない、それこそこのシリーズ記事で度々述べている、「真実なんて簡単にはわからない」典型です。さらに、政治の扱う領域は私たちの生活・私たちが住む社会です。専門家まかせにはできないはずなのですが、かといって、主体的に考えるといってもどうしていいかわからず・・・結局ずるずると、「どこかで聞いた話を信じる」「どこかで聞いた話を吹聴する」という風になってしまう。そして選挙のときも「空気」で決めてしまう。

ディスカッションのすすめ

わからないからこそ、最適解を求めよう。一人よりも複数で考えた方が、視野も広がり、よりよい解につながる。そうやって一人一人の主体的思考・主体的判断が集まって社会を動かしていく。民主主義の根っこにはこういう考え方があります。

「思考」「議論」
この2つを主体的に行っていくと、社会と自分の距離はぐっと近くなります。「真理」は思想・宗教だけの言葉ではないし、色々な事柄を「自分の問題」として考え、話し合うことは、社会が「どこかで誰かが決めてるもの」から「自分たちが考えて決めていくもの」になっていくきっかけになります。

ディスカッションのすすめ、一旦終了です。
来週は私の専門である医師について考えてみたいと思います。

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ディスカッションのすすめ~その4:「真理」は宗教語?~

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これまでのおさらい
1. ディスカッションはあるテーマについて複数の人がざっくばらんに論じ合う行為
2. 真実なんてそう簡単にはわからないから、人の話を聞く耳を持ち、協力してよりよい解に近づいていく
3. 「自分の意見に従わせること」ではなく、「何が真理か」に興味をもつことが大切

今日はディスカッションを通して「真理」に近づく、ということの意味について考えたいと思います。

「真理」は思想や宗教だけで扱う言葉ではない

「真理」というと、どうしても思想や宗教を連想してしまうキライがあります。第2章でも述べましたが、”私たちみたいな一般人が、偉そうに「真理」なんてものを語ることは分不相応だ”という感覚、日本の文化に生きた人ならば多かれ少なかれ持っているはずです。だから、一個人が「私の言っていることは正しい」ということは相当大変で、何か思想だったり宗教だったりに寄り添ってか、団体や多数派に寄り添ってでしか、そういう発言をすることは難しい。一般的な団体や多数派は平均的主張が多いので、私たちは自ずから平均的な発言をするようになる。よく横断歩道を渡るときにいう、「右を見て、左を見て、もう一度右を見てから」自分の意見を言うようになるんですね。そういう中で平均的でない発言を、「正しい」と思って発言することは、先に述べたような伝統的観点からすると、宗教か思想に寄り添っていると思われるわけですね。「真理」なんて言葉を使った日には・・レッテルを貼られて大変でしょうね。

ディスカッションをする際には、その伝統的感覚からは一歩離れてものを考えることをお勧めします。”ひとりひとり”が、真理すなわち「到達しうる最適解」に興味を持ち、そこに到達することを「実現可能な目標」として共有し、全体で知恵を交換し合う。話し合いの内容は「ロジック」に基づいて整理され、時間と労力を無駄にしない。これが建設的ディスカッションの基本です。そうやって出た答えには、参加者の知性がいい塩梅で盛り込まれており、現状における最良の解を、ディスカッションを通して得た、と実感できるわけです。

テレビで見る討論や国会での答弁にも、このような「実感」を感じられるものが多いと、知性を大切にする民主主義社会で生きているんだなあと実感できるのですが・・

次回でこのシリーズは最後です。「一般人が政治や社会について考えるときに大切なこと」について触れたいと思います。また、愛読書である「今日の政治的関心(田中美知太郎著)」を紹介したいと思います。

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ディスカッションのすすめ~その3:ベクトルを社会へ~

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前回、前々回と「ディスカッション」について少しずつ紹介してきました。
第1部では、口論・討論・議論の意味を考え、私たちにとってはどれも「対立」「あらそい」という印象が強く、敬遠しがちであることを、第2部では、人前で発言することの歴史的な意味や文化的な扱いに触れ、発言そのものが一大事だから、発言者は自身の発言=その人の人間そのものが否定されるのをおそれ、人の話を聞く余裕がなくなることなどに言及しました。

ディスカッションはあらそいごとと反対の概念

繰り返しになりますが、ディスカッションは、ある物事について、参加者どうしが自身の意見を交換し、あーでもないこーでもないと話し合うことで知恵を交換し、みんなでよりよい解を探していこう、という作業です。自分の意見を洗練するのはもちろんのこと、人の意見に興味をもって、よりよい解を一緒につくっていく姿勢が大切です。

もちろん自分が言ってることが正しい、と言いたくない人はいないのですが、自分が言ってることだけが真実だ、なんてことはないわけで、それこそ色んなバックグラウンドの人が集まって、知識や経験を交換しあう、貴重な機会なんですね。

ポイントは「興味のベクトル」です。話し合いに参加する人の興味が、「自分の意見にみんなを従わせること」だったら、第一部で述べたように、話し合いに意味はありません。ただのケンカになるか、政治的なやりとりや水面下での経済的なやりとりで結果が決まる出来レースになってしまう。私たちが目にする議論の多くが面白くないのは、そういう側面が強いからかもしれません。それこそ持論ですが(笑)。健全なディスカッションは、参加者の興味のベクトルが「自分」ではなく「真理(あるいは真実)」です。だから「協力」して論じあうんです。そしてそのときに道しるべになるのが「ロジック」です。ただみんなの意見の平均値をとればいいというのではなく、色んな意見をもった人達が、それぞれのいい部分を共有し、修正すべき部分を修正して、矛盾点を削って、その時間でできるベストをつくす。そして出来上がった結果を、みんなで共有する。とても建設的な作業だと思いませんか?

次回はこの「ロジック」について紹介したいと思います。

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ディスカッションのすすめ~その2:真実なんてわからない

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前回は口論・討論・議論・対話・ディベート・ディスカッションなど、言葉の意味にフォーカスをあてました。「同じ意見=味方」「違う意見=敵」と考えてしまいがちな私たちですが、それじゃあなかなかうまくいかないことも多い。様々な情報が入り乱れ、人も物も情報もどんどん動いていくこの社会で「自分らしく」生きるっていうのは大変です。どうしても誰かに頼りたくなったり、何かにすがりたくなる。そういう中で、”知恵を交換”し、”一緒によりよい解を探す”という「ディスカッション」は、自分自身に嘘をつかず、それでいて偏屈にもならないために、とても建設的で有用だ、と常々思います。

でも、なかなか日常生活の中には機会がないものです。今日は「私たちはどうしてディスカッションが苦手なのか」ということについて触れたいと思います。

真実なんてそう簡単にわかるもんじゃない

「何かを語る」ということ、ごくごく自然で日常の行為だと思われていますが、ここに「人前で」という前置きがつくと、一気に非日常の行為になってしまいます。一体その違いは何なんでしょうか。

欧米では、「言葉は人に伝えてなんぼ」という感覚が強く、少人数での話し合いの中の発言も、大勢の前での発言も「中身は一緒」で、と「せっかく話すんだからたくさんの人に聞いてもらおう」という感覚もそんなに珍しいものではありません。

一方我々は、少人数での”クローズド”な話し合いで結構いい意見を言っている人も、いざそれを大勢の前で発表しよう、となると、言うことが変わるわけではないのに、「私なんかが発言するなんて・・」「人前で話せるようなことでは・・」と、人前で話すことを「チャンス」ではなく「苦痛」と捉える人が多いようです。

また、自分は発言をしないけれど、人の発言には厳しい、という人が少なからずいます。そして口癖が「空気読め」。よく目にする光景ですね。こういったあり方を「日本人気質」と呼ぶことも多く耳にしますが、外国で育った日本人の方の多くがそうでないことや、職場や学校によってはそうでない方もいることを考慮すると、遺伝的なものではないようですね。やはり社会的に、そう考えるよう、そう振る舞うよう、教育・感化してきた結果としての気質のようです。

誤解をおそれずに言うと、「人前で発言するのはとても大変なこと」「大変だからこそそれを上手くやると得られるものも大きい」「だから大したことが言えない奴は調子にのって発言なんかしちゃいけない」という感覚がかなり広く共有されている。多くの人は「聴衆」であり、「発言者」が受け入れられれば、「聴衆」「支持者」となって、「発言者」「何者か」になります。受け入れられなければ「慢心した愚か者」となり、ややもすれば「村八分」の扱いを受ける。

だからこそ私たちは、「自分の意見を言う」ことに関して、とってもとっても慎重で、そして「発言するからにはそう簡単には変えられない」という気質が強いようです(こういう気質の成り立ちについては、言霊だとか階級社会だとか色々な説明がなされていますが、今日はそれには触れません。結果として今私たちがそれを感じていることに着目します。)。発言する側はそう考えるし、聴衆もそう考える、その阿吽の呼吸によって、前述の「空気」が成立する。その「空気」が、色々な媒体によって流布し、共有される。

だから発言者にミスは許されないし、聴衆は論戦を好む。「議論=討論=口論」という等式が成立してしまう。発言者は、発言した内容を変えないだけの見識が求められるし、彼/彼女が「真実」を言っていると主張しなければならない。大変です。人の話を聞く余裕もない。

ディスカッションをするときのキーワードは、「真実なんて簡単にはわからない」ということです。だから相手の話を聞くし、自分の意見も振り返って考えるんです。

記事の見出しの写真は、私の愛読書、西部邁「知性の構造」です。”考える”ことの教科書のような、名著です。機会があればぜひ一読をおすすめします。
次回は「ディスカッション」の姿勢やちょっとした工夫について紹介したいと思います。

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ディスカッションのすすめ ~その1:口論?討論?議論?~

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大学生のころから地元のFM局にお世話になり、番組を担当して、大学院生になった今も続けています。番組名は「More Discussion Club」。”もっとディスカッション・議論をしよう”という主旨で、周りの大学生や大学院生、若手社会人の方と一緒に、社会的なテーマを中心に、あーでもないこーでもない、とディスカッションしています。今日は番組での話を通して気づいたことをシェアしたいと思います。

口論?討論?議論?

私の親世代の方々に”議論”というと、”対立意見に分かれて相手を言い負かす行為”という意味合いで受け取られることが多いです。そして得てして「議論なんかしてもどうせ平行線で、何も解決しない」という言葉を添えられることが多い。この”相手を言い負かす”こと、平たく言えば口喧嘩が、日本における議論のイメージなんだ、と色々なところで実感します。

口論(英:quarrel)は、文字通り口喧嘩です。論理的であろうがなかろうが、言葉で言い争うこと、これを口論といいます。
討論(英:debate)は、対立意見に分かれて論理的に意見を闘わせることです。ディベートは言葉のスポーツとも言われます。高校生のディベート甲子園は有名ですね。
議論は、いくつかの意味をもつ言葉で、上の「ディベート」という意味で使われたり、国会で行われているような「議決」のことを指したり、あるいはこの記事のテーマでもある「ディスカッション」あるいは対話のことを指したり、と文脈によって意味が変わる言葉です。

日常会話で「対話」という言葉を使うことは極めて少ないですね。対立意見をもつ人達が、その不和を乗り越えてフェアな話し合いを試みる、というニュアンスが強い気がします。めったなことじゃ使わない。この「意見が異なる人達のフェアで自由な話し合い」は、私たちの生活環境にはあまりなじみがないんです。

「あなたのことは好きだけど、言っていることは間違っていると思う」と言うこと、結構難しいんですね。その理由は色々な本に書いていますが、平たく言うと「同じ意見=味方、違う意見=敵」という考え方が広く浸透している、という見解が多いですね。なかなか対立意見を「普通に」交換するのは難しい。だから議論というとほとんどの場合が討論で、しかも論理と感情を明確に分けて考える習慣がないから、討論と口論もほとんど同義で、「~論」というものは「対立」のイメージがあり、あまりポジティブには捉えられない。そんな気がします。

この記事のテーマでもある「ディスカッション」はとても建設的で有意義な行為です。それこそフェアだし、喧嘩じゃない。その話し合いに参加する全ての人にとって「よりよい妥協点」を目指す。今の社会にとっても必要なことだと思います。次回はこの「ディスカッション」について、色々な側面から考えてみたいと思います。

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リア充・非リア充

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昨日私が長崎でやっているラジオ番組の打ち合わせで、表題の「リア充・非リア充」について話しました。

リア充(ウィキペディア 一部抜粋)

リア充(リアじゅう)とは、リアル(現実)の生活が充実している人物を指す2ちゃんねる発祥のインターネットスラングで、若者言葉でもある。概念自体は2005年頃に2ちゃんねるの大学生活板で成立しリアル充実組と呼ばれていたが、2006年初頭に今のリア充の形として使われ始めた。当初は、インターネット上のコミュニティに入り浸る者が、現実生活が充実していないことを自虐的に表現するための対語的造語だった。その後、このニュアンスは、携帯電話を介したネットの利用者たちが流入するにつれ、彼らの恋愛や仕事の充実ぶりに対する妬みへと変化していった。


非リア充(ニコニコ大百科 一部抜粋)

非リア充(略称:非リア)とは、恋愛や仕事などの現実生活(リアル生活)が充実していない人間のこと。または、非リアル生活が充実している人間のこと。対義語はリア充。ネットやマルチメディア鑑賞、ゲームなどのオタク系趣味を好む傾向があり、リア充への嫉妬に似た嫌悪感を抱いていることが多い。コミュニケーション能力に乏しいなど何らかの理由で現実における対人活動を避けるが、一律に根暗や人嫌いというわけではなく、ネット上における対人活動(主に匿名)は通常にこなせるケースが殆どである。


私が大学でやっているサークルには、大学生、大学院生、留学生、若手社会人が集まります。そこで色んなテーマを、ああでもないこうでもないとディスカッションし、一部ラジオやYouTubeの番組として収録します。世代的にも、この話題はとても盛り上がる話題でした。インターネットが普及し、テクノロジーが進歩して、”バーチャル”リアリティーの”バーチャル”が全然虚ろではなくなってきている中、現実世界での成功を大切としない、という考え方が市民権を得ています。まだまだ”リアルを大切にする”考え方と比べて等価とはいえない扱いですが、ネットワークとテクノロジーがもっともっと進歩すれば、未来はどうなるかわかりません。

私たちの世代は既に、「バーチャルの心地よさ」を知っています。社会的成功も革命も、恋愛も結婚も、闘・食・性すべての成果が、疑似的にですが、比較的簡単に手に入ります。しかもそのソフトの数たるや無限ともいえるほどで、一生かかっても経験しつくせないくらいの疑似体験が、毎日のように世に出され、刺激的に更新され続けています。

仕事は苦痛、勉強は苦痛、人間関係も苦痛・・なぜなら思い通りにならないから。それを変えようとすれば努力が必要だし、努力したからといって必ず報われるわけではない。他に選択肢がなかった時代は、その結果を受け入れざるを得なかったけれど、今は時間と労力さえかければ必ず報われる世界がある。どうしてそれを生活の第一に置かないことがあろうか。

こういう風に考えることは、私たちの世代なら、「了解可能」なはずです。しかし、これを「リアルを大事にする考え方と等価の選択肢」と言ってしまうと、競争社会は回らなくなる。かといって、膨張するこの市場を否定するわけにはいかない。そういうジレンマが社会にもあるはずです。当の本人はというと、「リアルが大切だ」というのを第一としつつも、第二の世界をしっかり大切にしている。ちょうど江戸時代の隠れキリシタンのようなものでしょうか。

リアルだけで生きて、勝者と敗者に分かれる。
リアルを第一として、バーチャルを第二とする。リアルでうまくいかなくても、バーチャルでうまくいく。
リアルでの生活は、はなっからあきらめて、バーチャルでの生活を第一とする。

色んな生き方があります。どれが一番いいのか。答えは出ないかもしれません。
次回はさらにつっこんで、この問題を取り上げたいと思います。

茅野龍馬

古典

古典を読む楽しさ

古典

歴史の試練をくぐり抜けたベストセラー

中学生のころ、古文漢文の授業が始まって以来、古典の魅力にとりつかれ、色々と読んできました。我が家の本棚には、仕事で使う専門書とともに、たくさんの古典が並んでいます。何度読んでも飽きない、心の内側から感動する、という作品が数多くあり、毎日様々なことを学ばせてもらっています。

書店の店先には、そのとき人気のある作家のベストセラーが展示してあり、流行に応じて変わっていきます。一週間だけ並ぶものもあれば、一ヶ月のものもある。その後はというと、ほとんどが姿を消し、一部ジャンル分けされたコーナーや作家別のコーナーに続けて展示される。数年前にもてはやされた作家を、今は全く見かけなくなった、なんてことも少なくありません。最近は、純粋な文学作品よりも、自己啓発本やドキュメンタリーなどがベストセラーとして紹介されることが多いようです。そしてその多くは数ヶ月単位で姿を消す。次々に新しい作品が店頭に並び、消費されていく。「長く残る」というのは、それだけでとても大変だと感じます。

そういう意味で、古典はとてつもないベストセラーだと言えます。数百年・数千年読まれ続けている作品です。歴史の中で何人の手に取られ、読まれたか、想像しただけで圧倒されます。現代にいたっても、毎年一定数の人が新しくその本を購入し、色々な場所、例えばこういったブログなどでも度々引用される。さすがだな、と感じます。

私も古典を読む中で、その「普遍的価値」に度々勉強させられます。日本の古典だと、例えば枕草子や徒然草などは、物事の善し悪しのセンスを養ってくれますし、漢籍だと老子・荘子、四書(大学・中庸・論語・孟子)などは、大抵の悩み事に解決の糸口をくれるし、武経七書(孫子・呉子・六韜など)には処世の知恵がたくさんつまっています。

そうはいっても・・

面白い古典を買って読んでいるうちに、読みたい古典がたまっていき、なかなか現代の書籍を読む時間がつくれない、という状況が続いています。でもそれじゃあいけないと思っています。なぜなら、古典が古典として存在しているのは、それが書かれたころの人達がそれを愛し、それをその時代のベストセラーにしたからです。

よい作品を「残す」のは、その時代の人、現代なら現代人です。そういう意識をもって、古典を読み、今の書物を読む。歴史の連続性の中で豊かな人生を送るのは、簡単じゃないですね。

茅野龍馬

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クオリティの下限

人間味が薄れていく飲食店のサービス

今日は”クオリティの下限”について考えたいと思います。きっかけは先日の食事です。たまたま普段行くお店が休みだったので、近くの居酒屋チェーン店に入りました。飲み物を2杯と食べ物を3品ほど注文して、決して味が美味しくなかったわけではないのですが、気になったのはその”サービス”でした。

ゆび
注文があるときにボタンを押して店員さんを呼ぶシステム、今では日本中至る所にあるそうです。このお店も同様のシステムを導入していました。ボタンを押すと掲示板に番号が表示されて、それに気づいた店員さんが表示準に対応していく、というものです。

一見合理的なこのシステムですが、私はとても違和感を感じました。そのお店、個室というか仕切りのあるスペースが多いわけではありません。見通しのよい店内にテーブルが6個ほど、生け簀を囲んでカウンターが10席ほどあり、数名のホール係が常時待機しています。普通に手をあげて合図すれば気づくような店の構造です。にも関わらずボタンシステムを導入している。

そこでそのホール係の方々は何をしているかというと、ただただボタンの音に反応して注文を聞き、完成した料理・飲み物をテーブルまで運搬する、というものでした。ホールでの顧客の状況には全く興味がない様子で、運搬作業・注文確認時以外は、終始ホール係同士で雑談している、という状況でした。

そんな中、こういう経験をしました。私が箸を落としたので「すいません」と店員さんを呼んだところ、「ボタンを押してください。順番に対応します」とのこと。刺身と油物とを注文していたので、取り皿を変えてほしい、ということをお願いしたときも同様の対応でした。

私はこのとき、何ともいえない違和感を覚えました。「一体何のためのボタンなのか」と感じたのです。本来、ホールあるいは客室係の仕事は、顧客の機微に対応し、顧客が満足のいく時間を過ごすサポートをすることだと、大まかに言えます。そこで例えば伝統ある料亭などでは、客室ごとに客室係が待機し、声や合図などで反応して、その要望に対応します。そんなマンパワーはどこにでもあるわけではなく、一般的な飲食店では、限られた人数での接客をします。そういう中「個室空間」をウリにする飲食店は、平均的予算の範囲内で個室空間と迅速な対応とを何とか両立させるため、ボタンシステムを導入していると聞きます。また、「低価格」をウリにする店は、広い店内スペースを少ない人員で回して、人件費を浮かし、パターン化されたメニューを大量生産大量消費することで低価格を実現しています。こういうお店も、永遠に店員が回ってこない、なんていう事態を避けるためボタンシステムを導入していると聞きます。


それもまた「しょうがない」と言ってしまう

こういうシステムは、本来の「人間らしいサービス」を「価格」や「効率」のために犠牲にしているもの、と言うことができると思います。日本の社会の面白いところ(ユニークなところ)は、諸外国と異なり、これがむしろひとつの「あたり前」になってきていることです。人間味のないサービスが社会に浸透していった背景には、社会のコミュニティが破綻し、コミュニケーションが苦手になる人達が増えていることがあります。そういう中、むしろその「人間的やりとり」を重視しない傾向がかなりの範囲で広がっていると言えます。例えばファミレスなどでは店員さんとは目も合わせず、ボタンで呼んで、メニューをただ読み、注文する。店員は店員でそれを機械的に記録し、機械的に復唱する。アイコンタクトの一切ないやり取りで注文が完了し、一定時間で料理がテーブルに届く。こういう光景はもはや珍しくないものになりました。すなわちこの「機械的やりとり」がひとつの「マジョリティ」となって市民権を得てしまったわけです。

そして前述のようなお店でも、そういうサービスがあたり前になってしまっている。十分目が行き届く店内に、十分な数のホールがいて、値段も安くない。しかしボタンシステムを導入していて、接客はファミレスのアルバイトとほとんど大差ない、という状況です。値段はそのままに、ただ接客の質を落とす。そういうことが、全国的に起こっているように感じます。

この違和感を周囲の友人に話すと、反応は半々で、半分は共感をしてくれますが、もう半分は「そんなもんでしょ」「しょうがない」という反応です。サービスを選ぶ側として、「これ以上は譲れない」という感覚が薄いように感じます。ヨーロッパに行くと、ホールはホールをマネージ(管理・運営)するのが仕事、という感覚が根強いです。だから、アルバイトであれ何であれ、ホールで仕事をする以上はそのホールの責任は自分がもっている、という雰囲気があります。実際日本のこの状況を説明すると、10名中10名が、「それはサービスじゃないね」と答えます。「自分だったら絶対行かない」という人が、私の周りには多いです。

この「クオリティの下限」の問題、実はもっともっと深く社会全体に浸透していて、飲食店でのサービスに留まりません。「バター風マーガリン」「手打ち風そば」「手作り風弁当」「果汁0%のオレンジジュース」など、例をあげればきりがないのですが、例えばフランスと比べると、日本の社会がいかにこの問題に無頓着か、ということがわかります。「価格」「効率」を追求し、「見せかけ」を多様することが社会全体のクオリティ意識を下げることになる、ということを自覚し、きちんと規制する、というスタイルをとっている国として、フランスは有名です。

この話題についてはまた日を改めて共有したいと思います。

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山之口貘

山之口貘

高田渡に引き続き、今度は詩人の紹介をしたいと思います。山之口貘という沖縄出身の詩人です。ずいぶん昔の人なんですが、高田渡の歌にはこの人の詩を歌ったものが少なくありません。

芸術は素晴らしい、としみじみ思うのは、先日引用した草枕で夏目漱石がいっていたように、世のしがらみをひと時離れて、本質と向き合うことができるからだなあと感じます。


座蒲団   

土の上には床がある
床の上には畳がある
畳の上にあるのが座蒲団でその上にあるのが楽という
楽の上にはなんにもないのであろうか
どうぞおしきなさいとすすめられて
楽に座ったさびしさよ
土の世界をはるかに見下ろしているように
住み馴れぬ世界がさびしいよ

〜詩集『思辨の苑』1938(昭和13)年より〜


生活に困っていた時期の多い彼は、その様子を隠すことなく、身の丈でたくさんの詩を書いています。芸術で暮らすのは簡単ではなく、時代のせいもあって、浮浪者として16年間暮らしていたそうです。しかしその間片時も詩を書くことはやめなかったと言います。そんな彼が、座布団の上に座るとき、こういうことを考える。私たちの生活にも似たようなことが言えるのではないか、そう感じます。


借金を背負って(1951年)

借りた金はすでに
じゅうまんえんを越えて来た
これらの金をぼくに
貸してくれた人々は色々で
なかには期限つきの条件のもあり
いつでもいいよと言ったのもあり
あずかりものを貸してあげるのだから
なるべく早く返してもらいたいと言ったのや
返すなんてそんなことなど
お気にされては困ると言うのもあったのだ
いずれにしても
背負って歩いていると
重たくなるのが借金なのだ
その日ばくは背負った借金のことを
じゅうまんだろうがなんじゅうまんだろうが
一挙に返済したくなったような
さっぱりしたい衝動にかられたのだ
ところが例によって
その日にまた一文もないので
借金を背負ったまま
借りに出かけたのだ


読んだらそのまま情景が分かる。すごく深刻で大変な状況なのが見て取れるんだけれども、詩を読むと、彼の精神は荒んでいない。貧乏でも金持ちでも、借金があってもなくても、土の上でも座布団の上でも、山之口貘はそのまんま山之口貘なんだと、彼の人間を感じます。

そのまんまは難しい

「そのまんまでいいよ」という本を中学生のころに読んだことがあります。ブッタとシッタカブッタという4コママンガのシリーズです。
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このマンガはとっても面白くて、何度読み返してもためになる。今も私の実家の本棚には3部シリーズが全部置いてあります。ブッダを模したブタこと「ブッタ」が、悩めるブタ「シッタカブッタ」と一緒に人生の悩み事を色々考える本です。

色々な名言が飛び交います。

自分の価値を押し付けるブタ

「勉強しなさい! いっぱい勉強していい学校へ入って いい会社にはいるのよ!」
「それからどうするの?」
「また、がんばって、エラくなるのよ」
「エラくなったら、どうなるの?」
「お金もちになったりして、シアワセになるのよ」
「シアワセって、そんなに先にいかなきゃないの?」



本当のボクという言いわけ

「本当のボクをみんなわかってくれない・・・」
「本当のあんたってどこにいるの?」



不幸を消す

幸福と不幸を2つに分けることをやめると 
不幸は消える 
ただ幸福も消えるけどね



振り返ると、色んな人が色んな言葉で、ありのままの大切さ、価値に多様性を持たせることの大切さを語ってきた(今この瞬間もたくさんの言葉が発されている)と感じます。あらそいごとの根っこには、「受け入れないこと」があります。どう頑張ったって受け入れ難いものもありますが、よく考えるとそれはごくごくわずかな気がします。自分のしてきた「あらそいごと」を振り返ると、何とまあ心の狭いこと、と思うことも少なくありません。もちろん文化ってのは、受け入れられるものとそうでないものを複雑に紡いできた歴史でもありますから、多様であればいいってわけでもないのですが・・

今日は最後に老子の二章を引用して終わります。

天下皆知美之爲美。斯惡已。
皆知善之爲善。斯不善已。
故有無相生、難易相成、長短相形、
高下相傾、音聲相和、前後相隨。
是以聖人、處無爲之事、行不言之教。
萬物作焉而不辭、生而不有、
爲而不恃、功成而弗居。
夫唯弗居、是以不去。

天下みな美の美たるを知るも、これ悪のみ。
みな善の善たるを知るも、これ不善のみ。
故(まこと)に有と無と相生じ、難と易と相成り、
長と短と相形(あらわ)れ、高と下と相傾き、
音と声と相和し、前と後相随(したが)う。
ここを以て聖人は、無為の事に処(お)り、
不言(ふげん)の教えを行なう。
万物ここに作(おこ)るも而(しか)も辞(ことば)せず、
生じるも而も有とせず、為すも而も恃(たの)まず、
功成るも而も居らず。
夫れ唯だ居らず、ここを以って去らず。

ひとやすみ

タカダワタル

今日は私の好きなミュージシャンの紹介をしたいと思います。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%94%B0%E6%B8%A1

高田渡

この人を知ったのは、友人のブログを見て、YouTubeで見たのがきっかけです。インターネットのいいところは、”誰かが残せば残る”というところです。生産→流通→販売、という手続を、店舗を介さなければできなかったころは、”消えてなくなる”ものが、たくさんあったと思います。じゃあ今は”どんなものでもいつまでも”残るか、というとそういうわけではないのですが、流通にのっからなくても、広い範囲で有名にならなくても、”確かな価値(少なくとも一人以上の人が一定の期間以上、一定の熱意以上でその価値を支持する)”があれば、共有することが可能である、という時代にはなったと思います。

「放送禁止歌」の特集を友人がブログで共有していて、その中に、表記のミュージシャン高田渡の「自衛隊に入ろう」という曲が入っていました。自衛隊ができたころにつくられたこの歌、当時の社会情勢を思い起こして、「なんてオシャレな歌だ!」と思いました。

https://www.youtube.com/watch?v=YvAoC0uYXCk

それから色んな曲を、今レコードは手に入らないので、YouTubeや古いCDを通して聞くようになり、すっかりファンになってしまったのですが・・

このロメウスイッチでも、「考えるヒント」をくれるステキなミュージシャンだと思ったので、今日このように紹介しています。


例えば消費税増税。民主党政権のころ、管直人首相が10%に増税の話をしたときは、すごい剣幕でバッシングしていた世論が、現政権で8%に増税の際は驚くほど静かだったことは、記憶に新しいです。そのとき聞いた歌が、高田渡の「値上げ」です。

https://www.youtube.com/watch?v=U5lx64va3vo

矛盾の中で生きる

日本人として日本で暮らしていると、人権・個人・市民社会という西洋から輸入した概念と、江戸時代までに定着した身分の概念やモラルや価値を自身の内部ではなく集団に見出す考え方、などがせめぎ合い、多かれ少なかれ矛盾を感じながら生きる、というのは多くの人が経験していることだと思います。

例えば人間はみな平等、と社会や道徳で習いますが、国語では「立場の上下を意識することの大切さ」を敬語の授業で習います。基本的人権やひとりひとりの尊厳の大切さも授業で習いますが、テレビでは毎日のように、人格を否定し、尊厳を傷つけるような表現が目に入ってきます。倫理の授業では”共存の大切さ”も教わりますが、学校全体は”受験戦争”の真っただ中ですし、メディアは勝ち組負け組の差をこれでもかと見せつけるし、家庭でも競争で勝つことを強要する教育をすることが少なくありません。

習ってるそばから矛盾だらけな教育環境で私たちは育つわけです。先生たちもそれは知ってるはずなのですが、教科として教えることに終始して、なかなかそれ以上のことを教えるほど時間も手間もかけられない、というのが大勢のようです。かといって家庭やメディアでそれを修正してくれるわけでもない。どこの国にもどんな社会にも矛盾はありますが、少なくとも「葛藤の仕方」を教えてくれる環境が大切だと、個人的には思います。しかし多くの場合、「そういうもんだ」「仕方がない」という言葉しか返ってこない。。社会に出ても同じような、いやむしろもっとキレイゴトじゃない状況が続く。。

こんなときに聞くのが、「あきらめ節」です。

http://www.youtube.com/watch?v=3lgxJnBbxMc

世間を見渡すと、この西洋の概念を信じて推し進める人たちを概して左、日本・東洋の概念、その中でもとりわけ集団の概念を大切にして組織的に活動する人たちを概して右、という風に呼び、せめぎあっています。まだまだ社会がどういう形になるのか、答えは出ていないですね。ひとつの変化が社会に大きく影響し、たくさんの人が右往左往します。何が正しいか、なんてことはとても流動的で、社会全体が自己矛盾を抱えています。その狭間でたくさんの人が悩んでいることを、仕事や放送、NGOを通して目の当たりにします。「考える」という行為はとても孤独です。だからこそ相談するし、議論する。だからこそ芸術を愛するんだと、強く思います。


最後に夏目漱石の「草枕」を引用して終わります。

山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。
智ちに働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟さとった時、詩が生れて、画(え)が出来る。
人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容(くつろ)げて、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降くだる。あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊たっとい。