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ディスカッションのすすめ~終わりに:私たちと社会の距離~

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政治は自然科学ではない

写真に紹介している、「今日の政治的関心(田中美知太郎著)」にある言葉です。
よく政治や社会についてのテレビ番組を見ると、「専門家」と呼ばれる人たちが登場して、それぞれの学説や見解を紹介します。一応考える主体は私たちのはずで、専門家の意見はあくまでも参考なのですが、どうも私たちは「専門家」を特別視しすぎている気がします。「専門家はその道については何でも知っていて、従って発言は全て真実である。そうでなければペテン師である」というような・・誤解をおそれずに言うなら、彼らをその道についての「予言者」「預言者」のような扱いをし、当たればもてはやし、外れればこき下ろす、というような感覚を私たちは持っているように思います。

科学の発達の伴って、何にでも答えがあると考える傾向が強くなっています。しかし再現性の高い学問である自然科学でさえ、未来はそう簡単に予測できません。これが政治となると、未来をピタリと当てることなんかできない、それこそこのシリーズ記事で度々述べている、「真実なんて簡単にはわからない」典型です。さらに、政治の扱う領域は私たちの生活・私たちが住む社会です。専門家まかせにはできないはずなのですが、かといって、主体的に考えるといってもどうしていいかわからず・・・結局ずるずると、「どこかで聞いた話を信じる」「どこかで聞いた話を吹聴する」という風になってしまう。そして選挙のときも「空気」で決めてしまう。

ディスカッションのすすめ

わからないからこそ、最適解を求めよう。一人よりも複数で考えた方が、視野も広がり、よりよい解につながる。そうやって一人一人の主体的思考・主体的判断が集まって社会を動かしていく。民主主義の根っこにはこういう考え方があります。

「思考」「議論」
この2つを主体的に行っていくと、社会と自分の距離はぐっと近くなります。「真理」は思想・宗教だけの言葉ではないし、色々な事柄を「自分の問題」として考え、話し合うことは、社会が「どこかで誰かが決めてるもの」から「自分たちが考えて決めていくもの」になっていくきっかけになります。

ディスカッションのすすめ、一旦終了です。
来週は私の専門である医師について考えてみたいと思います。

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ディスカッションのすすめ~その4:「真理」は宗教語?~

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これまでのおさらい
1. ディスカッションはあるテーマについて複数の人がざっくばらんに論じ合う行為
2. 真実なんてそう簡単にはわからないから、人の話を聞く耳を持ち、協力してよりよい解に近づいていく
3. 「自分の意見に従わせること」ではなく、「何が真理か」に興味をもつことが大切

今日はディスカッションを通して「真理」に近づく、ということの意味について考えたいと思います。

「真理」は思想や宗教だけで扱う言葉ではない

「真理」というと、どうしても思想や宗教を連想してしまうキライがあります。第2章でも述べましたが、”私たちみたいな一般人が、偉そうに「真理」なんてものを語ることは分不相応だ”という感覚、日本の文化に生きた人ならば多かれ少なかれ持っているはずです。だから、一個人が「私の言っていることは正しい」ということは相当大変で、何か思想だったり宗教だったりに寄り添ってか、団体や多数派に寄り添ってでしか、そういう発言をすることは難しい。一般的な団体や多数派は平均的主張が多いので、私たちは自ずから平均的な発言をするようになる。よく横断歩道を渡るときにいう、「右を見て、左を見て、もう一度右を見てから」自分の意見を言うようになるんですね。そういう中で平均的でない発言を、「正しい」と思って発言することは、先に述べたような伝統的観点からすると、宗教か思想に寄り添っていると思われるわけですね。「真理」なんて言葉を使った日には・・レッテルを貼られて大変でしょうね。

ディスカッションをする際には、その伝統的感覚からは一歩離れてものを考えることをお勧めします。”ひとりひとり”が、真理すなわち「到達しうる最適解」に興味を持ち、そこに到達することを「実現可能な目標」として共有し、全体で知恵を交換し合う。話し合いの内容は「ロジック」に基づいて整理され、時間と労力を無駄にしない。これが建設的ディスカッションの基本です。そうやって出た答えには、参加者の知性がいい塩梅で盛り込まれており、現状における最良の解を、ディスカッションを通して得た、と実感できるわけです。

テレビで見る討論や国会での答弁にも、このような「実感」を感じられるものが多いと、知性を大切にする民主主義社会で生きているんだなあと実感できるのですが・・

次回でこのシリーズは最後です。「一般人が政治や社会について考えるときに大切なこと」について触れたいと思います。また、愛読書である「今日の政治的関心(田中美知太郎著)」を紹介したいと思います。

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ディスカッションのすすめ~その3:ベクトルを社会へ~

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前回、前々回と「ディスカッション」について少しずつ紹介してきました。
第1部では、口論・討論・議論の意味を考え、私たちにとってはどれも「対立」「あらそい」という印象が強く、敬遠しがちであることを、第2部では、人前で発言することの歴史的な意味や文化的な扱いに触れ、発言そのものが一大事だから、発言者は自身の発言=その人の人間そのものが否定されるのをおそれ、人の話を聞く余裕がなくなることなどに言及しました。

ディスカッションはあらそいごとと反対の概念

繰り返しになりますが、ディスカッションは、ある物事について、参加者どうしが自身の意見を交換し、あーでもないこーでもないと話し合うことで知恵を交換し、みんなでよりよい解を探していこう、という作業です。自分の意見を洗練するのはもちろんのこと、人の意見に興味をもって、よりよい解を一緒につくっていく姿勢が大切です。

もちろん自分が言ってることが正しい、と言いたくない人はいないのですが、自分が言ってることだけが真実だ、なんてことはないわけで、それこそ色んなバックグラウンドの人が集まって、知識や経験を交換しあう、貴重な機会なんですね。

ポイントは「興味のベクトル」です。話し合いに参加する人の興味が、「自分の意見にみんなを従わせること」だったら、第一部で述べたように、話し合いに意味はありません。ただのケンカになるか、政治的なやりとりや水面下での経済的なやりとりで結果が決まる出来レースになってしまう。私たちが目にする議論の多くが面白くないのは、そういう側面が強いからかもしれません。それこそ持論ですが(笑)。健全なディスカッションは、参加者の興味のベクトルが「自分」ではなく「真理(あるいは真実)」です。だから「協力」して論じあうんです。そしてそのときに道しるべになるのが「ロジック」です。ただみんなの意見の平均値をとればいいというのではなく、色んな意見をもった人達が、それぞれのいい部分を共有し、修正すべき部分を修正して、矛盾点を削って、その時間でできるベストをつくす。そして出来上がった結果を、みんなで共有する。とても建設的な作業だと思いませんか?

次回はこの「ロジック」について紹介したいと思います。

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ディスカッションのすすめ~その2:真実なんてわからない

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前回は口論・討論・議論・対話・ディベート・ディスカッションなど、言葉の意味にフォーカスをあてました。「同じ意見=味方」「違う意見=敵」と考えてしまいがちな私たちですが、それじゃあなかなかうまくいかないことも多い。様々な情報が入り乱れ、人も物も情報もどんどん動いていくこの社会で「自分らしく」生きるっていうのは大変です。どうしても誰かに頼りたくなったり、何かにすがりたくなる。そういう中で、”知恵を交換”し、”一緒によりよい解を探す”という「ディスカッション」は、自分自身に嘘をつかず、それでいて偏屈にもならないために、とても建設的で有用だ、と常々思います。

でも、なかなか日常生活の中には機会がないものです。今日は「私たちはどうしてディスカッションが苦手なのか」ということについて触れたいと思います。

真実なんてそう簡単にわかるもんじゃない

「何かを語る」ということ、ごくごく自然で日常の行為だと思われていますが、ここに「人前で」という前置きがつくと、一気に非日常の行為になってしまいます。一体その違いは何なんでしょうか。

欧米では、「言葉は人に伝えてなんぼ」という感覚が強く、少人数での話し合いの中の発言も、大勢の前での発言も「中身は一緒」で、と「せっかく話すんだからたくさんの人に聞いてもらおう」という感覚もそんなに珍しいものではありません。

一方我々は、少人数での”クローズド”な話し合いで結構いい意見を言っている人も、いざそれを大勢の前で発表しよう、となると、言うことが変わるわけではないのに、「私なんかが発言するなんて・・」「人前で話せるようなことでは・・」と、人前で話すことを「チャンス」ではなく「苦痛」と捉える人が多いようです。

また、自分は発言をしないけれど、人の発言には厳しい、という人が少なからずいます。そして口癖が「空気読め」。よく目にする光景ですね。こういったあり方を「日本人気質」と呼ぶことも多く耳にしますが、外国で育った日本人の方の多くがそうでないことや、職場や学校によってはそうでない方もいることを考慮すると、遺伝的なものではないようですね。やはり社会的に、そう考えるよう、そう振る舞うよう、教育・感化してきた結果としての気質のようです。

誤解をおそれずに言うと、「人前で発言するのはとても大変なこと」「大変だからこそそれを上手くやると得られるものも大きい」「だから大したことが言えない奴は調子にのって発言なんかしちゃいけない」という感覚がかなり広く共有されている。多くの人は「聴衆」であり、「発言者」が受け入れられれば、「聴衆」「支持者」となって、「発言者」「何者か」になります。受け入れられなければ「慢心した愚か者」となり、ややもすれば「村八分」の扱いを受ける。

だからこそ私たちは、「自分の意見を言う」ことに関して、とってもとっても慎重で、そして「発言するからにはそう簡単には変えられない」という気質が強いようです(こういう気質の成り立ちについては、言霊だとか階級社会だとか色々な説明がなされていますが、今日はそれには触れません。結果として今私たちがそれを感じていることに着目します。)。発言する側はそう考えるし、聴衆もそう考える、その阿吽の呼吸によって、前述の「空気」が成立する。その「空気」が、色々な媒体によって流布し、共有される。

だから発言者にミスは許されないし、聴衆は論戦を好む。「議論=討論=口論」という等式が成立してしまう。発言者は、発言した内容を変えないだけの見識が求められるし、彼/彼女が「真実」を言っていると主張しなければならない。大変です。人の話を聞く余裕もない。

ディスカッションをするときのキーワードは、「真実なんて簡単にはわからない」ということです。だから相手の話を聞くし、自分の意見も振り返って考えるんです。

記事の見出しの写真は、私の愛読書、西部邁「知性の構造」です。”考える”ことの教科書のような、名著です。機会があればぜひ一読をおすすめします。
次回は「ディスカッション」の姿勢やちょっとした工夫について紹介したいと思います。

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ディスカッションのすすめ ~その1:口論?討論?議論?~

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大学生のころから地元のFM局にお世話になり、番組を担当して、大学院生になった今も続けています。番組名は「More Discussion Club」。”もっとディスカッション・議論をしよう”という主旨で、周りの大学生や大学院生、若手社会人の方と一緒に、社会的なテーマを中心に、あーでもないこーでもない、とディスカッションしています。今日は番組での話を通して気づいたことをシェアしたいと思います。

口論?討論?議論?

私の親世代の方々に”議論”というと、”対立意見に分かれて相手を言い負かす行為”という意味合いで受け取られることが多いです。そして得てして「議論なんかしてもどうせ平行線で、何も解決しない」という言葉を添えられることが多い。この”相手を言い負かす”こと、平たく言えば口喧嘩が、日本における議論のイメージなんだ、と色々なところで実感します。

口論(英:quarrel)は、文字通り口喧嘩です。論理的であろうがなかろうが、言葉で言い争うこと、これを口論といいます。
討論(英:debate)は、対立意見に分かれて論理的に意見を闘わせることです。ディベートは言葉のスポーツとも言われます。高校生のディベート甲子園は有名ですね。
議論は、いくつかの意味をもつ言葉で、上の「ディベート」という意味で使われたり、国会で行われているような「議決」のことを指したり、あるいはこの記事のテーマでもある「ディスカッション」あるいは対話のことを指したり、と文脈によって意味が変わる言葉です。

日常会話で「対話」という言葉を使うことは極めて少ないですね。対立意見をもつ人達が、その不和を乗り越えてフェアな話し合いを試みる、というニュアンスが強い気がします。めったなことじゃ使わない。この「意見が異なる人達のフェアで自由な話し合い」は、私たちの生活環境にはあまりなじみがないんです。

「あなたのことは好きだけど、言っていることは間違っていると思う」と言うこと、結構難しいんですね。その理由は色々な本に書いていますが、平たく言うと「同じ意見=味方、違う意見=敵」という考え方が広く浸透している、という見解が多いですね。なかなか対立意見を「普通に」交換するのは難しい。だから議論というとほとんどの場合が討論で、しかも論理と感情を明確に分けて考える習慣がないから、討論と口論もほとんど同義で、「~論」というものは「対立」のイメージがあり、あまりポジティブには捉えられない。そんな気がします。

この記事のテーマでもある「ディスカッション」はとても建設的で有意義な行為です。それこそフェアだし、喧嘩じゃない。その話し合いに参加する全ての人にとって「よりよい妥協点」を目指す。今の社会にとっても必要なことだと思います。次回はこの「ディスカッション」について、色々な側面から考えてみたいと思います。