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ディスカッションのすすめ~終わりに:私たちと社会の距離~

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政治は自然科学ではない

写真に紹介している、「今日の政治的関心(田中美知太郎著)」にある言葉です。
よく政治や社会についてのテレビ番組を見ると、「専門家」と呼ばれる人たちが登場して、それぞれの学説や見解を紹介します。一応考える主体は私たちのはずで、専門家の意見はあくまでも参考なのですが、どうも私たちは「専門家」を特別視しすぎている気がします。「専門家はその道については何でも知っていて、従って発言は全て真実である。そうでなければペテン師である」というような・・誤解をおそれずに言うなら、彼らをその道についての「予言者」「預言者」のような扱いをし、当たればもてはやし、外れればこき下ろす、というような感覚を私たちは持っているように思います。

科学の発達の伴って、何にでも答えがあると考える傾向が強くなっています。しかし再現性の高い学問である自然科学でさえ、未来はそう簡単に予測できません。これが政治となると、未来をピタリと当てることなんかできない、それこそこのシリーズ記事で度々述べている、「真実なんて簡単にはわからない」典型です。さらに、政治の扱う領域は私たちの生活・私たちが住む社会です。専門家まかせにはできないはずなのですが、かといって、主体的に考えるといってもどうしていいかわからず・・・結局ずるずると、「どこかで聞いた話を信じる」「どこかで聞いた話を吹聴する」という風になってしまう。そして選挙のときも「空気」で決めてしまう。

ディスカッションのすすめ

わからないからこそ、最適解を求めよう。一人よりも複数で考えた方が、視野も広がり、よりよい解につながる。そうやって一人一人の主体的思考・主体的判断が集まって社会を動かしていく。民主主義の根っこにはこういう考え方があります。

「思考」「議論」
この2つを主体的に行っていくと、社会と自分の距離はぐっと近くなります。「真理」は思想・宗教だけの言葉ではないし、色々な事柄を「自分の問題」として考え、話し合うことは、社会が「どこかで誰かが決めてるもの」から「自分たちが考えて決めていくもの」になっていくきっかけになります。

ディスカッションのすすめ、一旦終了です。
来週は私の専門である医師について考えてみたいと思います。

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ディスカッションのすすめ~その4:「真理」は宗教語?~

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これまでのおさらい
1. ディスカッションはあるテーマについて複数の人がざっくばらんに論じ合う行為
2. 真実なんてそう簡単にはわからないから、人の話を聞く耳を持ち、協力してよりよい解に近づいていく
3. 「自分の意見に従わせること」ではなく、「何が真理か」に興味をもつことが大切

今日はディスカッションを通して「真理」に近づく、ということの意味について考えたいと思います。

「真理」は思想や宗教だけで扱う言葉ではない

「真理」というと、どうしても思想や宗教を連想してしまうキライがあります。第2章でも述べましたが、”私たちみたいな一般人が、偉そうに「真理」なんてものを語ることは分不相応だ”という感覚、日本の文化に生きた人ならば多かれ少なかれ持っているはずです。だから、一個人が「私の言っていることは正しい」ということは相当大変で、何か思想だったり宗教だったりに寄り添ってか、団体や多数派に寄り添ってでしか、そういう発言をすることは難しい。一般的な団体や多数派は平均的主張が多いので、私たちは自ずから平均的な発言をするようになる。よく横断歩道を渡るときにいう、「右を見て、左を見て、もう一度右を見てから」自分の意見を言うようになるんですね。そういう中で平均的でない発言を、「正しい」と思って発言することは、先に述べたような伝統的観点からすると、宗教か思想に寄り添っていると思われるわけですね。「真理」なんて言葉を使った日には・・レッテルを貼られて大変でしょうね。

ディスカッションをする際には、その伝統的感覚からは一歩離れてものを考えることをお勧めします。”ひとりひとり”が、真理すなわち「到達しうる最適解」に興味を持ち、そこに到達することを「実現可能な目標」として共有し、全体で知恵を交換し合う。話し合いの内容は「ロジック」に基づいて整理され、時間と労力を無駄にしない。これが建設的ディスカッションの基本です。そうやって出た答えには、参加者の知性がいい塩梅で盛り込まれており、現状における最良の解を、ディスカッションを通して得た、と実感できるわけです。

テレビで見る討論や国会での答弁にも、このような「実感」を感じられるものが多いと、知性を大切にする民主主義社会で生きているんだなあと実感できるのですが・・

次回でこのシリーズは最後です。「一般人が政治や社会について考えるときに大切なこと」について触れたいと思います。また、愛読書である「今日の政治的関心(田中美知太郎著)」を紹介したいと思います。

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ディスカッションのすすめ~その3:ベクトルを社会へ~

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前回、前々回と「ディスカッション」について少しずつ紹介してきました。
第1部では、口論・討論・議論の意味を考え、私たちにとってはどれも「対立」「あらそい」という印象が強く、敬遠しがちであることを、第2部では、人前で発言することの歴史的な意味や文化的な扱いに触れ、発言そのものが一大事だから、発言者は自身の発言=その人の人間そのものが否定されるのをおそれ、人の話を聞く余裕がなくなることなどに言及しました。

ディスカッションはあらそいごとと反対の概念

繰り返しになりますが、ディスカッションは、ある物事について、参加者どうしが自身の意見を交換し、あーでもないこーでもないと話し合うことで知恵を交換し、みんなでよりよい解を探していこう、という作業です。自分の意見を洗練するのはもちろんのこと、人の意見に興味をもって、よりよい解を一緒につくっていく姿勢が大切です。

もちろん自分が言ってることが正しい、と言いたくない人はいないのですが、自分が言ってることだけが真実だ、なんてことはないわけで、それこそ色んなバックグラウンドの人が集まって、知識や経験を交換しあう、貴重な機会なんですね。

ポイントは「興味のベクトル」です。話し合いに参加する人の興味が、「自分の意見にみんなを従わせること」だったら、第一部で述べたように、話し合いに意味はありません。ただのケンカになるか、政治的なやりとりや水面下での経済的なやりとりで結果が決まる出来レースになってしまう。私たちが目にする議論の多くが面白くないのは、そういう側面が強いからかもしれません。それこそ持論ですが(笑)。健全なディスカッションは、参加者の興味のベクトルが「自分」ではなく「真理(あるいは真実)」です。だから「協力」して論じあうんです。そしてそのときに道しるべになるのが「ロジック」です。ただみんなの意見の平均値をとればいいというのではなく、色んな意見をもった人達が、それぞれのいい部分を共有し、修正すべき部分を修正して、矛盾点を削って、その時間でできるベストをつくす。そして出来上がった結果を、みんなで共有する。とても建設的な作業だと思いませんか?

次回はこの「ロジック」について紹介したいと思います。

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ディスカッションのすすめ~その2:真実なんてわからない

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前回は口論・討論・議論・対話・ディベート・ディスカッションなど、言葉の意味にフォーカスをあてました。「同じ意見=味方」「違う意見=敵」と考えてしまいがちな私たちですが、それじゃあなかなかうまくいかないことも多い。様々な情報が入り乱れ、人も物も情報もどんどん動いていくこの社会で「自分らしく」生きるっていうのは大変です。どうしても誰かに頼りたくなったり、何かにすがりたくなる。そういう中で、”知恵を交換”し、”一緒によりよい解を探す”という「ディスカッション」は、自分自身に嘘をつかず、それでいて偏屈にもならないために、とても建設的で有用だ、と常々思います。

でも、なかなか日常生活の中には機会がないものです。今日は「私たちはどうしてディスカッションが苦手なのか」ということについて触れたいと思います。

真実なんてそう簡単にわかるもんじゃない

「何かを語る」ということ、ごくごく自然で日常の行為だと思われていますが、ここに「人前で」という前置きがつくと、一気に非日常の行為になってしまいます。一体その違いは何なんでしょうか。

欧米では、「言葉は人に伝えてなんぼ」という感覚が強く、少人数での話し合いの中の発言も、大勢の前での発言も「中身は一緒」で、と「せっかく話すんだからたくさんの人に聞いてもらおう」という感覚もそんなに珍しいものではありません。

一方我々は、少人数での”クローズド”な話し合いで結構いい意見を言っている人も、いざそれを大勢の前で発表しよう、となると、言うことが変わるわけではないのに、「私なんかが発言するなんて・・」「人前で話せるようなことでは・・」と、人前で話すことを「チャンス」ではなく「苦痛」と捉える人が多いようです。

また、自分は発言をしないけれど、人の発言には厳しい、という人が少なからずいます。そして口癖が「空気読め」。よく目にする光景ですね。こういったあり方を「日本人気質」と呼ぶことも多く耳にしますが、外国で育った日本人の方の多くがそうでないことや、職場や学校によってはそうでない方もいることを考慮すると、遺伝的なものではないようですね。やはり社会的に、そう考えるよう、そう振る舞うよう、教育・感化してきた結果としての気質のようです。

誤解をおそれずに言うと、「人前で発言するのはとても大変なこと」「大変だからこそそれを上手くやると得られるものも大きい」「だから大したことが言えない奴は調子にのって発言なんかしちゃいけない」という感覚がかなり広く共有されている。多くの人は「聴衆」であり、「発言者」が受け入れられれば、「聴衆」「支持者」となって、「発言者」「何者か」になります。受け入れられなければ「慢心した愚か者」となり、ややもすれば「村八分」の扱いを受ける。

だからこそ私たちは、「自分の意見を言う」ことに関して、とってもとっても慎重で、そして「発言するからにはそう簡単には変えられない」という気質が強いようです(こういう気質の成り立ちについては、言霊だとか階級社会だとか色々な説明がなされていますが、今日はそれには触れません。結果として今私たちがそれを感じていることに着目します。)。発言する側はそう考えるし、聴衆もそう考える、その阿吽の呼吸によって、前述の「空気」が成立する。その「空気」が、色々な媒体によって流布し、共有される。

だから発言者にミスは許されないし、聴衆は論戦を好む。「議論=討論=口論」という等式が成立してしまう。発言者は、発言した内容を変えないだけの見識が求められるし、彼/彼女が「真実」を言っていると主張しなければならない。大変です。人の話を聞く余裕もない。

ディスカッションをするときのキーワードは、「真実なんて簡単にはわからない」ということです。だから相手の話を聞くし、自分の意見も振り返って考えるんです。

記事の見出しの写真は、私の愛読書、西部邁「知性の構造」です。”考える”ことの教科書のような、名著です。機会があればぜひ一読をおすすめします。
次回は「ディスカッション」の姿勢やちょっとした工夫について紹介したいと思います。

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ディスカッションのすすめ ~その1:口論?討論?議論?~

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大学生のころから地元のFM局にお世話になり、番組を担当して、大学院生になった今も続けています。番組名は「More Discussion Club」。”もっとディスカッション・議論をしよう”という主旨で、周りの大学生や大学院生、若手社会人の方と一緒に、社会的なテーマを中心に、あーでもないこーでもない、とディスカッションしています。今日は番組での話を通して気づいたことをシェアしたいと思います。

口論?討論?議論?

私の親世代の方々に”議論”というと、”対立意見に分かれて相手を言い負かす行為”という意味合いで受け取られることが多いです。そして得てして「議論なんかしてもどうせ平行線で、何も解決しない」という言葉を添えられることが多い。この”相手を言い負かす”こと、平たく言えば口喧嘩が、日本における議論のイメージなんだ、と色々なところで実感します。

口論(英:quarrel)は、文字通り口喧嘩です。論理的であろうがなかろうが、言葉で言い争うこと、これを口論といいます。
討論(英:debate)は、対立意見に分かれて論理的に意見を闘わせることです。ディベートは言葉のスポーツとも言われます。高校生のディベート甲子園は有名ですね。
議論は、いくつかの意味をもつ言葉で、上の「ディベート」という意味で使われたり、国会で行われているような「議決」のことを指したり、あるいはこの記事のテーマでもある「ディスカッション」あるいは対話のことを指したり、と文脈によって意味が変わる言葉です。

日常会話で「対話」という言葉を使うことは極めて少ないですね。対立意見をもつ人達が、その不和を乗り越えてフェアな話し合いを試みる、というニュアンスが強い気がします。めったなことじゃ使わない。この「意見が異なる人達のフェアで自由な話し合い」は、私たちの生活環境にはあまりなじみがないんです。

「あなたのことは好きだけど、言っていることは間違っていると思う」と言うこと、結構難しいんですね。その理由は色々な本に書いていますが、平たく言うと「同じ意見=味方、違う意見=敵」という考え方が広く浸透している、という見解が多いですね。なかなか対立意見を「普通に」交換するのは難しい。だから議論というとほとんどの場合が討論で、しかも論理と感情を明確に分けて考える習慣がないから、討論と口論もほとんど同義で、「~論」というものは「対立」のイメージがあり、あまりポジティブには捉えられない。そんな気がします。

この記事のテーマでもある「ディスカッション」はとても建設的で有意義な行為です。それこそフェアだし、喧嘩じゃない。その話し合いに参加する全ての人にとって「よりよい妥協点」を目指す。今の社会にとっても必要なことだと思います。次回はこの「ディスカッション」について、色々な側面から考えてみたいと思います。

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リア充・非リア充

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昨日私が長崎でやっているラジオ番組の打ち合わせで、表題の「リア充・非リア充」について話しました。

リア充(ウィキペディア 一部抜粋)

リア充(リアじゅう)とは、リアル(現実)の生活が充実している人物を指す2ちゃんねる発祥のインターネットスラングで、若者言葉でもある。概念自体は2005年頃に2ちゃんねるの大学生活板で成立しリアル充実組と呼ばれていたが、2006年初頭に今のリア充の形として使われ始めた。当初は、インターネット上のコミュニティに入り浸る者が、現実生活が充実していないことを自虐的に表現するための対語的造語だった。その後、このニュアンスは、携帯電話を介したネットの利用者たちが流入するにつれ、彼らの恋愛や仕事の充実ぶりに対する妬みへと変化していった。


非リア充(ニコニコ大百科 一部抜粋)

非リア充(略称:非リア)とは、恋愛や仕事などの現実生活(リアル生活)が充実していない人間のこと。または、非リアル生活が充実している人間のこと。対義語はリア充。ネットやマルチメディア鑑賞、ゲームなどのオタク系趣味を好む傾向があり、リア充への嫉妬に似た嫌悪感を抱いていることが多い。コミュニケーション能力に乏しいなど何らかの理由で現実における対人活動を避けるが、一律に根暗や人嫌いというわけではなく、ネット上における対人活動(主に匿名)は通常にこなせるケースが殆どである。


私が大学でやっているサークルには、大学生、大学院生、留学生、若手社会人が集まります。そこで色んなテーマを、ああでもないこうでもないとディスカッションし、一部ラジオやYouTubeの番組として収録します。世代的にも、この話題はとても盛り上がる話題でした。インターネットが普及し、テクノロジーが進歩して、”バーチャル”リアリティーの”バーチャル”が全然虚ろではなくなってきている中、現実世界での成功を大切としない、という考え方が市民権を得ています。まだまだ”リアルを大切にする”考え方と比べて等価とはいえない扱いですが、ネットワークとテクノロジーがもっともっと進歩すれば、未来はどうなるかわかりません。

私たちの世代は既に、「バーチャルの心地よさ」を知っています。社会的成功も革命も、恋愛も結婚も、闘・食・性すべての成果が、疑似的にですが、比較的簡単に手に入ります。しかもそのソフトの数たるや無限ともいえるほどで、一生かかっても経験しつくせないくらいの疑似体験が、毎日のように世に出され、刺激的に更新され続けています。

仕事は苦痛、勉強は苦痛、人間関係も苦痛・・なぜなら思い通りにならないから。それを変えようとすれば努力が必要だし、努力したからといって必ず報われるわけではない。他に選択肢がなかった時代は、その結果を受け入れざるを得なかったけれど、今は時間と労力さえかければ必ず報われる世界がある。どうしてそれを生活の第一に置かないことがあろうか。

こういう風に考えることは、私たちの世代なら、「了解可能」なはずです。しかし、これを「リアルを大事にする考え方と等価の選択肢」と言ってしまうと、競争社会は回らなくなる。かといって、膨張するこの市場を否定するわけにはいかない。そういうジレンマが社会にもあるはずです。当の本人はというと、「リアルが大切だ」というのを第一としつつも、第二の世界をしっかり大切にしている。ちょうど江戸時代の隠れキリシタンのようなものでしょうか。

リアルだけで生きて、勝者と敗者に分かれる。
リアルを第一として、バーチャルを第二とする。リアルでうまくいかなくても、バーチャルでうまくいく。
リアルでの生活は、はなっからあきらめて、バーチャルでの生活を第一とする。

色んな生き方があります。どれが一番いいのか。答えは出ないかもしれません。
次回はさらにつっこんで、この問題を取り上げたいと思います。

茅野龍馬

クオリティの下限

人間味が薄れていく飲食店のサービス

今日は”クオリティの下限”について考えたいと思います。きっかけは先日の食事です。たまたま普段行くお店が休みだったので、近くの居酒屋チェーン店に入りました。飲み物を2杯と食べ物を3品ほど注文して、決して味が美味しくなかったわけではないのですが、気になったのはその”サービス”でした。

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注文があるときにボタンを押して店員さんを呼ぶシステム、今では日本中至る所にあるそうです。このお店も同様のシステムを導入していました。ボタンを押すと掲示板に番号が表示されて、それに気づいた店員さんが表示準に対応していく、というものです。

一見合理的なこのシステムですが、私はとても違和感を感じました。そのお店、個室というか仕切りのあるスペースが多いわけではありません。見通しのよい店内にテーブルが6個ほど、生け簀を囲んでカウンターが10席ほどあり、数名のホール係が常時待機しています。普通に手をあげて合図すれば気づくような店の構造です。にも関わらずボタンシステムを導入している。

そこでそのホール係の方々は何をしているかというと、ただただボタンの音に反応して注文を聞き、完成した料理・飲み物をテーブルまで運搬する、というものでした。ホールでの顧客の状況には全く興味がない様子で、運搬作業・注文確認時以外は、終始ホール係同士で雑談している、という状況でした。

そんな中、こういう経験をしました。私が箸を落としたので「すいません」と店員さんを呼んだところ、「ボタンを押してください。順番に対応します」とのこと。刺身と油物とを注文していたので、取り皿を変えてほしい、ということをお願いしたときも同様の対応でした。

私はこのとき、何ともいえない違和感を覚えました。「一体何のためのボタンなのか」と感じたのです。本来、ホールあるいは客室係の仕事は、顧客の機微に対応し、顧客が満足のいく時間を過ごすサポートをすることだと、大まかに言えます。そこで例えば伝統ある料亭などでは、客室ごとに客室係が待機し、声や合図などで反応して、その要望に対応します。そんなマンパワーはどこにでもあるわけではなく、一般的な飲食店では、限られた人数での接客をします。そういう中「個室空間」をウリにする飲食店は、平均的予算の範囲内で個室空間と迅速な対応とを何とか両立させるため、ボタンシステムを導入していると聞きます。また、「低価格」をウリにする店は、広い店内スペースを少ない人員で回して、人件費を浮かし、パターン化されたメニューを大量生産大量消費することで低価格を実現しています。こういうお店も、永遠に店員が回ってこない、なんていう事態を避けるためボタンシステムを導入していると聞きます。


それもまた「しょうがない」と言ってしまう

こういうシステムは、本来の「人間らしいサービス」を「価格」や「効率」のために犠牲にしているもの、と言うことができると思います。日本の社会の面白いところ(ユニークなところ)は、諸外国と異なり、これがむしろひとつの「あたり前」になってきていることです。人間味のないサービスが社会に浸透していった背景には、社会のコミュニティが破綻し、コミュニケーションが苦手になる人達が増えていることがあります。そういう中、むしろその「人間的やりとり」を重視しない傾向がかなりの範囲で広がっていると言えます。例えばファミレスなどでは店員さんとは目も合わせず、ボタンで呼んで、メニューをただ読み、注文する。店員は店員でそれを機械的に記録し、機械的に復唱する。アイコンタクトの一切ないやり取りで注文が完了し、一定時間で料理がテーブルに届く。こういう光景はもはや珍しくないものになりました。すなわちこの「機械的やりとり」がひとつの「マジョリティ」となって市民権を得てしまったわけです。

そして前述のようなお店でも、そういうサービスがあたり前になってしまっている。十分目が行き届く店内に、十分な数のホールがいて、値段も安くない。しかしボタンシステムを導入していて、接客はファミレスのアルバイトとほとんど大差ない、という状況です。値段はそのままに、ただ接客の質を落とす。そういうことが、全国的に起こっているように感じます。

この違和感を周囲の友人に話すと、反応は半々で、半分は共感をしてくれますが、もう半分は「そんなもんでしょ」「しょうがない」という反応です。サービスを選ぶ側として、「これ以上は譲れない」という感覚が薄いように感じます。ヨーロッパに行くと、ホールはホールをマネージ(管理・運営)するのが仕事、という感覚が根強いです。だから、アルバイトであれ何であれ、ホールで仕事をする以上はそのホールの責任は自分がもっている、という雰囲気があります。実際日本のこの状況を説明すると、10名中10名が、「それはサービスじゃないね」と答えます。「自分だったら絶対行かない」という人が、私の周りには多いです。

この「クオリティの下限」の問題、実はもっともっと深く社会全体に浸透していて、飲食店でのサービスに留まりません。「バター風マーガリン」「手打ち風そば」「手作り風弁当」「果汁0%のオレンジジュース」など、例をあげればきりがないのですが、例えばフランスと比べると、日本の社会がいかにこの問題に無頓着か、ということがわかります。「価格」「効率」を追求し、「見せかけ」を多様することが社会全体のクオリティ意識を下げることになる、ということを自覚し、きちんと規制する、というスタイルをとっている国として、フランスは有名です。

この話題についてはまた日を改めて共有したいと思います。

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言語と思考

ハマド国際空港

ドーハから投稿です。ハマド国際空港は、カタールの新しい玄関で、とても機能的な空港です。カタールは、アジア、ヨーロッパ、アフリカの中継地点として、ドーハの空港に昼夜を問わずたくさんの旅客が出入りします。そのドーハに新拠点「ハマド国際空港」ができ、今回のギリシャへの旅でも使わせてもらいました。トランジット(乗り換え)の人がほとんどなので、空港のつくりはシンプルです。中心に色んなレストランやお店が集まるスクエアがあって、そこから放射状に各ターミナルへの道がつながる。手荷物検査の内外にお店があり、外がショッピングモールのようになっていて、中は売店がメイン、という日本の空港とは趣を異にするつくりです。

スクリーンショット 2014-10-02 10.17.00巨大な電光掲示板とテディ?ベア。手前には車が”DUTY FREE”で展示されています。

石油で潤うカタールらしい、贅沢なお店も見かけました。ロンドンを拠点に世界に支店を持つキャビア専門店、「Cavia House Purnier」です。「砂漠なのにシーフードかよ!」と言いたくなるくらい、伊勢エビ(ロブスター)、牡蠣、サーモン料理、そしてキャビアがずらりと置いてありました。お値段も通常の食事とは一桁違う出費を要するものばかりでした。フライトまで時間がなかったこともあり、メニューだけ見て素通りしようかと思いましたが、手頃に食べれるメニューもあって誘惑に負け、キャビアスプーン1杯(5g,約1500円)を注文し、キンキンに冷えたウォッカと一緒に食べました。新鮮な刺身と日本酒のような”絶妙な組み合わせ”だと感じました。もし旅行帰りに外貨が少し余っていたら、一度立ち寄られてはいかがでしょうか?間違いなくハマドで一番ステキなレストランの一つだと思います。

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言語と思考

さて、本題に入ります。今回参加したRhodes Youth Forumでは、とにかくたくさんの議論をしました。世界が直面する諸問題について、それこそ世界中から集まった人達が知恵を出し合って解決策を考えたり、それをもとにプロジェクトを立ち上げたりする、とてもアクティブな場でした。プロジェクトを申請しないといけない、という縛りがあるので、日本からの参加者は今回私ひとりだけでしたが、周囲の友人知人にも伝え、来年はこの”あたり前”をひとりでも多くの仲間と共有できればと思っています。

その中で一つ強く感じたのは、「使っている言語は違えど考えていることは一緒だ」ということです。私たちは日本語で思考し、日本語で話をします。外国人も一緒で、母国語で思考し、母国語で話をします。あたり前のことですが、外国にいくと忘れがちなことの一つでもあります。外国人と英語でコミュニケーションをとるとき、言いたいことが英語で言えなかったり、きちんと伝えられなかったりすると、「自分は相手より劣っている」とか「相手の方がものを知っていてよく考えている」ように感じてしまうことが多いのではないでしょうか?

でも、よく耳を傾けてみると…自分も考えたことがあるようなこと、普通にロジカルに考えれば出てくること、をハキハキと語っている、ということが多いです。むしろ東洋文化がベースにある私たちは、思考のバリエーションという意味で、ロジックと正義を基軸とする西洋の人達にはない視点を持っていることも少なからずあり、議論の幅を広げたり、解決策の種類を増やしたり、という部分に大きく貢献出来ると感じています。

表題の写真は私の参加したグループディスカッションの様子です。たまたまロシア・旧ソ連の人が多く、英語と一緒にロシア語が飛び交っていました。ロシア語はほとんどわかりませんが、間に入る英語や、司会の通訳で大体の内容を理解しながら議論しました。自己主張が強い人が多く、議論はときに本題からそれて盛り上がりを見せることも多かったです。そういうとき、私たちの感覚は、「ちゃんとお題に答える話し合いをしよう」と考えるものです。実際にそれを言うと、みんながハッと我に返る、ということもしばしば見かけました。

思考の大切さ

よく一緒に国際交流やプロジェクトをやる仲間と、「英語より日本語が大切」という話をします。母国語が日本語である以上、日本語による思考で到達した内容以上のことを、英語で表現できることはほとんどないからです。もっとかみ砕いた言葉で言うと、「日本語で大したことを言えない人は、英語でも大したことは言えない」。何語で話すにしろ、それなりのことを考えて行動していないと、どこに行ったって相手にされないものです。

最近は語学留学で半年や一年、アメリカやカナダに行く人も増えています。そこで英語がスムーズに話せるようになって帰ってくる。でも、言っていることの質が飛躍的に上がった、という人は見たことがありません。むしろ日常会話にやたらと横文字を混ぜるようになったり、何かとと英語を使ってみせたり、という何とも決まりの悪い癖を身につけてしまう、ということが目立つように思います。もちろん、2つの言語を使えることによって思考の幅が広がる、ということはあります。しかし、何にせよ「きちんと考える」「考えに基づいて行動する」ということをしていないと、何語でしゃべろうが中途半端で、「聞くに値しない」と評価される結果に陥ってしまうかもしれません。

逆に「話したい内容」を持っている人は、ゆっくりであれ、少々の不自然さはあれ、話を聞いてもらえるものです。そして、そのときに感じた「違和感」「不全感」は、その後の言語学習に対する大きなモチベーションとなります。私は語学留学をしたことはありませんが、国際的なプロジェクトに参加したり、外国人を自分のプロジェクトに巻き込んだり、ということを通して、今は不自由なくコミュニケーションを取ることができます。でもその根本は、「外国人に話したいこと」「外国でやりたいこと」がある、ということです。それがないと、易きに流れて続かないもんです。私たち日本人は幸い、日本で暮らす上で外国語を必要としません。ですから、日常生活の中にその必要性をつくる、ということはとても難しいんですね。だからこそ、「世界」を視野に何かを考えている人は、意識してその「何か」をもち、それを実行するために努力する、という習慣をもつことをおすすめします。

今回のギリシャ訪問で、一層言語習得に対するモチベーションが上がりました。言語習得の必要性については、日を改めてまた共有したいと思います。

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ギリシャ Rhodes Youth Forum

国際アイディアコンテスト

ギリシャから投稿です。表記のRhodes Youth Forumは、5年前にヨーロッパで始まった企画で、世界中の若者がアイディアを競うコンテストです。毎年9月下旬〜10月上旬にギリシャのロードス島で開催されます。参加者はまず申請書類(履歴書・企画書など)を記載し、自身の企画についてのプレゼンテーションをビデオに撮ったものを添えて申請します。選考に通れば、旅費の一部に援助を受ける形で、ロードス島での選考会に参加することができます。選考に通らなかった場合も、見学者としての参加を受け付けています。選考は3〜4つのテーマ(毎年そのときの世界情勢によって変わります)にわかれており、各テーマ10〜20名、計50名程度がアイディアを競います。優勝者にはそのアイディアを形にするための賞金が出ます(最高150万円程度)。

今年のテーマは
Modern Learning Environment (教育・学習環境)
Youth Diplomacy and International Relations (外交における若者の役割と国際関係)
Social Enterpreneurship(社会的起業)


の3つで、見学者も含め、45ヶ国から100名程度の若者(20代〜30代)が参加しています。

私は去年のフォーラムで自身の国際企画を発表し、今年はその継続をテーマに講演を、ということで、ロードス島に来ています。とても綺麗な場所で、歴史もあって(7世紀ころのギリシャ文化)、ヨーロッパ中から観光客の来るリゾート地です。もし機会があれば、一度立ち寄られていはいかがでしょうか?

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国際交流としての意味

3つのテーマ全ての発表を拝見しましたが、参加者は皆、自身のアイディアを形にしようと熱気がこもっています。中には緊張して声がうわずったり、英語が母国語でないために質問の意味がわからず答えられない、というハプニングも認めますが、同年代の若者が、文字通り「切磋琢磨」する、エキサイティングな場です。

アイディアはそれこそ玉石混淆で、「中高生の自由課題かな」というものから、「国全体・世界全体を次のステージに進める」という意志や可能性を感じさせるものまで様々です。

こういったコンテストのいいところの一つは、参加者どうしが、”お互い頑張って競い合った仲間”という意識を持っているので、国をこえ、民族をこえて、深い交流ができるところだと思います。私も昨晩はセルビアからの参加者と、それぞれの国の問題やその共通点、市民社会とプロパガンダ、自身の生きる意味など(書いていて少し恥ずかしいですが)について、夜も遅くまで語り合っていました。互いの歩んできた人生に深く共感する部分があると、1時間も話せば旧知の仲のように打ち解けられる、ということを強く感じる貴重な機会でした。

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それとは別にRYF(Rhodes Youth Forum)のいいところは、音楽やダンスを大切にするところです。数名の参加者はプロのアーティストで、発表もしますが、初日のウェルカムパーティーでは演奏もしてくれます。ほとんどの参加者は初対面なので、初めは知らない顔ばかりなのですが、演奏を聞き、お酒を飲み、一緒に踊っている中でいつの間にか友達になっているんですね。そのとき仲良くなった人達とは、コンテストの間一緒に過ごすことが多くなるもんで、いわゆる“いい友達”が自然とできている。教授も社長も政治家も、医者も弁護士も芸能人も、学生でも無職でも、つまり自身が何者でも、“何かをもって”そこに参加していれば、対等に尊敬し合う仲間だし、歌ったり踊ったりする中では肩書きは関係なく、人間と人間の付き合いができるところも魅力のひとつです。

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刺激的な講演

コンテストは3日間にわたって行われますが、競技自体は最初の1日で、2日目3日目はワークショップや講演がメインです。国際交流や起業、イノベーション、などをテーマにコンテストをするわけですから、講演するゲストもいわゆる「成功者」の人達で、世界展開するビジネスを手がけている人、著名な作家、高名な学者がほとんどです。そういう人達が3日間の間で何度もパネルディスカッションを行い、コンテストの進行に伴って、「これでもか」というくらい、たくさんのアドバイスを若者に伝えます。会場からもどんどん質問が出て、質問から議論が生まれ、いくら話しても話足りない、という雰囲気の中でひとつのセッションが終わり、休憩をはさんで次のセッションへ、と・・刺激的で充実した時間を過ごすことができます。

今回とても印象に残ったゲストは
Peter Löscher(オーストリア人)という方で、世界的製薬会社の社長です(wikipedia参照)。
ひとつひとつの言葉に重みがあり、またとても気さくな方で、会議のときはもちろん、食事やパーティーのときも、自然体で話ができるジェントルマンでした。

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フォーラムの様子は近いうちに動画で編集してYouTubeで紹介します。
今日は彼の言葉で、すごく感動したものを紹介して終わろうと思います。

Never ever compromise your personal integrity
自分自身(の理念、誠実さ)に妥協しないこと。

You are respected when you respect others.
You are trusted when you trust others.

人を敬うから自分も大切にされる。人を信じるから自分も信用される。

Be competent and confident
努力をしなさい(有能であれ)。そして誇りを持ちなさい。

国際人

国際人ってなんだろう?

国際人を尊ぶ傾向

先日母校の長崎大学で開かれた、「グローバル人材育成プログラム」のプレゼンテーション大会で、講演をさせてもらいました。テーマは、「国際人を目指す人達へのメッセージ」という、何とも大それたテーマで話をさせてもらいました。

講演の様子はYouTubeで見ることができます(後半6分くらい)。

http://youtu.be/kqftN9_IHFQ

昨今政府の支援もあって、全国的に「世界に打って出る人材」「世界を舞台に活躍できる人材」を育てるプログラムが盛んです。それをグローバル人材といって、「グローバル」「国際」という言葉もよく耳にするようになりました。技術が革新し、世界が昔より近くなった今、そのような考え方や試みが出てくることは自然で、様々なレベルで議論がされています。

毎度のパターンで恐縮ですが、果たして私たちの「ものの見方」はそれに伴って進歩しているのでしょうか?

グローバル、国際、NGO, NPO

グローバル人材、グローバル企業、グローバルビジネス
国際人、国際NGO(手前味噌ですが)、国際会議

色々な場面でこの国際・グローバルという言葉が使われます。また、国際的な活動をする人、広く社会に貢献する人たちはNPOやNGOで活動していることが少なくありません。そして何だかブランドめいた、ちょっとした憧れをもって語られることも多いです。でもそれって、そんなに「特別」なことなんでしょうか?


例えば町内会のゴミ拾い活動があります。それを何と呼びますか?「町内会の活動」です。しかし、それを全国で”活動”として展開すれば“NGO”と言ったり、その公益性を強調すれば“NPO”と言ったりします。やってることは同じゴミ拾いです。活動範囲や重視するものはどうあれ、それは”自分たちが住む地域”のためにやっている大切な活動だと思います。でも、昨今の流れを見ると、どこか広く展開したり公益性を重視したりすること、NGOと呼んだりNPOと呼んだりすることに何らかの「価値」を見出だし、自然なスタンスで地味にやることを「かっこ悪い」とか「損してる」とかいう風に低く評価する傾向があるように思えます。

例えば実家の隣にある八百屋さんのやってる仕事をなんと言いますか?「八百屋」です。でもその八百屋さんの店舗が拡大して、県内にチェーン店舗を展開すると、「中小企業」と呼ばれます。お隣の国に支店を出すと、「国際的にビジネスを展開する会社」と呼ばれ、いくつかの大陸に支店を出して、流通まで手がけると、「グローバルビジネス」と呼ばれる。やってることは同じ「野菜を売る商売」です。それを必要とする人達のための大切な生産活動です。でも、商売の範囲や複雑さが異なると、呼び方が変わり、その価値まで異なるかのように思われる。

そんな傾向が私たちにはあるような気がします。
一言でいうと、「言葉の中身を深く考えない癖」です。
それが色々な部分で弊害を生んでいるのではないか、というのが僕の意見です。

グローバル、国際という言葉だって、語源から考えれば全然違う言葉だけれど、同じような意味で使うことがほとんどで、あまりその中身について論じません。国家の存在を前提とし、国と国のキワ(間がら)を考えるのが国際であるのに対し、グローバル(globe:地球)は、国境を意識しません。でも、世界から国家がなくなったわけでも、一つの国が統一国家をつくったわけでもありません。世界は国と国との競争であり、その上に個々の競争がのっかっている、というのが実情です。


言葉の中身を考える習慣

既存の競争概念にのっとり、その中での優劣を競う、という感覚で国際人を語るなら、それはただ、収入が高いとか、外国語が話せてかっこいいとか、そういうことなんだと思います。あるいは日本の強さや素晴らしさを世界に示す、というナショナリスティックな意味を付加することもあります。

それが悪いというわけではないのですが、冒頭に述べたように、これだけ世界が近くなって、グローバルだとか国際だとかいうことを大切にしていくというなら、もう一歩踏み込んで考えてみてもいいのかな、と思います。例えば、「”国内ではできない何か”をやるために外国で頑張る人」とか、「技術的に近くなった世界を、本質的に次のステージに進めるために貢献する人」とか、”国際”という言葉の中に、何か夢や未来を感じるような思考があると、その言葉は活き活きとした”意味”を持ち、健全なモチベーションや評価につながると思います。

他の言葉も一緒で、言葉の意味を、既存の競争概念の中での価値だけで考えず、夢や未来を付加して考えることは、毎日の生活を活気づけるきっかけにもなります。子供のころ私たちはみんなそうだったのでは?大人になると色々と考えなきゃいけないことが増え、きれいごとじゃない部分がたくさんあることを知り、どうもそういう思考が苦手になってしまう傾向があるように思えます。もちろん何でもかんでも「元気があれば何でもできる」と言えばいい、というわけではないのですが、私たちが言葉を使って思考する人間である以上、言葉の使い方、言葉の捉え方を見つめてみる、というのはとても大切なことのように思えます。

今からギリシャです。「ソーシャルメディアと社会」というテーマで講演してきます。
その様子も追って紹介できればと思います。