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ディスカッションのすすめ~終わりに:私たちと社会の距離~

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政治は自然科学ではない

写真に紹介している、「今日の政治的関心(田中美知太郎著)」にある言葉です。
よく政治や社会についてのテレビ番組を見ると、「専門家」と呼ばれる人たちが登場して、それぞれの学説や見解を紹介します。一応考える主体は私たちのはずで、専門家の意見はあくまでも参考なのですが、どうも私たちは「専門家」を特別視しすぎている気がします。「専門家はその道については何でも知っていて、従って発言は全て真実である。そうでなければペテン師である」というような・・誤解をおそれずに言うなら、彼らをその道についての「予言者」「預言者」のような扱いをし、当たればもてはやし、外れればこき下ろす、というような感覚を私たちは持っているように思います。

科学の発達の伴って、何にでも答えがあると考える傾向が強くなっています。しかし再現性の高い学問である自然科学でさえ、未来はそう簡単に予測できません。これが政治となると、未来をピタリと当てることなんかできない、それこそこのシリーズ記事で度々述べている、「真実なんて簡単にはわからない」典型です。さらに、政治の扱う領域は私たちの生活・私たちが住む社会です。専門家まかせにはできないはずなのですが、かといって、主体的に考えるといってもどうしていいかわからず・・・結局ずるずると、「どこかで聞いた話を信じる」「どこかで聞いた話を吹聴する」という風になってしまう。そして選挙のときも「空気」で決めてしまう。

ディスカッションのすすめ

わからないからこそ、最適解を求めよう。一人よりも複数で考えた方が、視野も広がり、よりよい解につながる。そうやって一人一人の主体的思考・主体的判断が集まって社会を動かしていく。民主主義の根っこにはこういう考え方があります。

「思考」「議論」
この2つを主体的に行っていくと、社会と自分の距離はぐっと近くなります。「真理」は思想・宗教だけの言葉ではないし、色々な事柄を「自分の問題」として考え、話し合うことは、社会が「どこかで誰かが決めてるもの」から「自分たちが考えて決めていくもの」になっていくきっかけになります。

ディスカッションのすすめ、一旦終了です。
来週は私の専門である医師について考えてみたいと思います。

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ディスカッションのすすめ~その4:「真理」は宗教語?~

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これまでのおさらい
1. ディスカッションはあるテーマについて複数の人がざっくばらんに論じ合う行為
2. 真実なんてそう簡単にはわからないから、人の話を聞く耳を持ち、協力してよりよい解に近づいていく
3. 「自分の意見に従わせること」ではなく、「何が真理か」に興味をもつことが大切

今日はディスカッションを通して「真理」に近づく、ということの意味について考えたいと思います。

「真理」は思想や宗教だけで扱う言葉ではない

「真理」というと、どうしても思想や宗教を連想してしまうキライがあります。第2章でも述べましたが、”私たちみたいな一般人が、偉そうに「真理」なんてものを語ることは分不相応だ”という感覚、日本の文化に生きた人ならば多かれ少なかれ持っているはずです。だから、一個人が「私の言っていることは正しい」ということは相当大変で、何か思想だったり宗教だったりに寄り添ってか、団体や多数派に寄り添ってでしか、そういう発言をすることは難しい。一般的な団体や多数派は平均的主張が多いので、私たちは自ずから平均的な発言をするようになる。よく横断歩道を渡るときにいう、「右を見て、左を見て、もう一度右を見てから」自分の意見を言うようになるんですね。そういう中で平均的でない発言を、「正しい」と思って発言することは、先に述べたような伝統的観点からすると、宗教か思想に寄り添っていると思われるわけですね。「真理」なんて言葉を使った日には・・レッテルを貼られて大変でしょうね。

ディスカッションをする際には、その伝統的感覚からは一歩離れてものを考えることをお勧めします。”ひとりひとり”が、真理すなわち「到達しうる最適解」に興味を持ち、そこに到達することを「実現可能な目標」として共有し、全体で知恵を交換し合う。話し合いの内容は「ロジック」に基づいて整理され、時間と労力を無駄にしない。これが建設的ディスカッションの基本です。そうやって出た答えには、参加者の知性がいい塩梅で盛り込まれており、現状における最良の解を、ディスカッションを通して得た、と実感できるわけです。

テレビで見る討論や国会での答弁にも、このような「実感」を感じられるものが多いと、知性を大切にする民主主義社会で生きているんだなあと実感できるのですが・・

次回でこのシリーズは最後です。「一般人が政治や社会について考えるときに大切なこと」について触れたいと思います。また、愛読書である「今日の政治的関心(田中美知太郎著)」を紹介したいと思います。

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ディスカッションのすすめ~その3:ベクトルを社会へ~

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前回、前々回と「ディスカッション」について少しずつ紹介してきました。
第1部では、口論・討論・議論の意味を考え、私たちにとってはどれも「対立」「あらそい」という印象が強く、敬遠しがちであることを、第2部では、人前で発言することの歴史的な意味や文化的な扱いに触れ、発言そのものが一大事だから、発言者は自身の発言=その人の人間そのものが否定されるのをおそれ、人の話を聞く余裕がなくなることなどに言及しました。

ディスカッションはあらそいごとと反対の概念

繰り返しになりますが、ディスカッションは、ある物事について、参加者どうしが自身の意見を交換し、あーでもないこーでもないと話し合うことで知恵を交換し、みんなでよりよい解を探していこう、という作業です。自分の意見を洗練するのはもちろんのこと、人の意見に興味をもって、よりよい解を一緒につくっていく姿勢が大切です。

もちろん自分が言ってることが正しい、と言いたくない人はいないのですが、自分が言ってることだけが真実だ、なんてことはないわけで、それこそ色んなバックグラウンドの人が集まって、知識や経験を交換しあう、貴重な機会なんですね。

ポイントは「興味のベクトル」です。話し合いに参加する人の興味が、「自分の意見にみんなを従わせること」だったら、第一部で述べたように、話し合いに意味はありません。ただのケンカになるか、政治的なやりとりや水面下での経済的なやりとりで結果が決まる出来レースになってしまう。私たちが目にする議論の多くが面白くないのは、そういう側面が強いからかもしれません。それこそ持論ですが(笑)。健全なディスカッションは、参加者の興味のベクトルが「自分」ではなく「真理(あるいは真実)」です。だから「協力」して論じあうんです。そしてそのときに道しるべになるのが「ロジック」です。ただみんなの意見の平均値をとればいいというのではなく、色んな意見をもった人達が、それぞれのいい部分を共有し、修正すべき部分を修正して、矛盾点を削って、その時間でできるベストをつくす。そして出来上がった結果を、みんなで共有する。とても建設的な作業だと思いませんか?

次回はこの「ロジック」について紹介したいと思います。

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ディスカッションのすすめ~その2:真実なんてわからない

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前回は口論・討論・議論・対話・ディベート・ディスカッションなど、言葉の意味にフォーカスをあてました。「同じ意見=味方」「違う意見=敵」と考えてしまいがちな私たちですが、それじゃあなかなかうまくいかないことも多い。様々な情報が入り乱れ、人も物も情報もどんどん動いていくこの社会で「自分らしく」生きるっていうのは大変です。どうしても誰かに頼りたくなったり、何かにすがりたくなる。そういう中で、”知恵を交換”し、”一緒によりよい解を探す”という「ディスカッション」は、自分自身に嘘をつかず、それでいて偏屈にもならないために、とても建設的で有用だ、と常々思います。

でも、なかなか日常生活の中には機会がないものです。今日は「私たちはどうしてディスカッションが苦手なのか」ということについて触れたいと思います。

真実なんてそう簡単にわかるもんじゃない

「何かを語る」ということ、ごくごく自然で日常の行為だと思われていますが、ここに「人前で」という前置きがつくと、一気に非日常の行為になってしまいます。一体その違いは何なんでしょうか。

欧米では、「言葉は人に伝えてなんぼ」という感覚が強く、少人数での話し合いの中の発言も、大勢の前での発言も「中身は一緒」で、と「せっかく話すんだからたくさんの人に聞いてもらおう」という感覚もそんなに珍しいものではありません。

一方我々は、少人数での”クローズド”な話し合いで結構いい意見を言っている人も、いざそれを大勢の前で発表しよう、となると、言うことが変わるわけではないのに、「私なんかが発言するなんて・・」「人前で話せるようなことでは・・」と、人前で話すことを「チャンス」ではなく「苦痛」と捉える人が多いようです。

また、自分は発言をしないけれど、人の発言には厳しい、という人が少なからずいます。そして口癖が「空気読め」。よく目にする光景ですね。こういったあり方を「日本人気質」と呼ぶことも多く耳にしますが、外国で育った日本人の方の多くがそうでないことや、職場や学校によってはそうでない方もいることを考慮すると、遺伝的なものではないようですね。やはり社会的に、そう考えるよう、そう振る舞うよう、教育・感化してきた結果としての気質のようです。

誤解をおそれずに言うと、「人前で発言するのはとても大変なこと」「大変だからこそそれを上手くやると得られるものも大きい」「だから大したことが言えない奴は調子にのって発言なんかしちゃいけない」という感覚がかなり広く共有されている。多くの人は「聴衆」であり、「発言者」が受け入れられれば、「聴衆」「支持者」となって、「発言者」「何者か」になります。受け入れられなければ「慢心した愚か者」となり、ややもすれば「村八分」の扱いを受ける。

だからこそ私たちは、「自分の意見を言う」ことに関して、とってもとっても慎重で、そして「発言するからにはそう簡単には変えられない」という気質が強いようです(こういう気質の成り立ちについては、言霊だとか階級社会だとか色々な説明がなされていますが、今日はそれには触れません。結果として今私たちがそれを感じていることに着目します。)。発言する側はそう考えるし、聴衆もそう考える、その阿吽の呼吸によって、前述の「空気」が成立する。その「空気」が、色々な媒体によって流布し、共有される。

だから発言者にミスは許されないし、聴衆は論戦を好む。「議論=討論=口論」という等式が成立してしまう。発言者は、発言した内容を変えないだけの見識が求められるし、彼/彼女が「真実」を言っていると主張しなければならない。大変です。人の話を聞く余裕もない。

ディスカッションをするときのキーワードは、「真実なんて簡単にはわからない」ということです。だから相手の話を聞くし、自分の意見も振り返って考えるんです。

記事の見出しの写真は、私の愛読書、西部邁「知性の構造」です。”考える”ことの教科書のような、名著です。機会があればぜひ一読をおすすめします。
次回は「ディスカッション」の姿勢やちょっとした工夫について紹介したいと思います。

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ディスカッションのすすめ ~その1:口論?討論?議論?~

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大学生のころから地元のFM局にお世話になり、番組を担当して、大学院生になった今も続けています。番組名は「More Discussion Club」。”もっとディスカッション・議論をしよう”という主旨で、周りの大学生や大学院生、若手社会人の方と一緒に、社会的なテーマを中心に、あーでもないこーでもない、とディスカッションしています。今日は番組での話を通して気づいたことをシェアしたいと思います。

口論?討論?議論?

私の親世代の方々に”議論”というと、”対立意見に分かれて相手を言い負かす行為”という意味合いで受け取られることが多いです。そして得てして「議論なんかしてもどうせ平行線で、何も解決しない」という言葉を添えられることが多い。この”相手を言い負かす”こと、平たく言えば口喧嘩が、日本における議論のイメージなんだ、と色々なところで実感します。

口論(英:quarrel)は、文字通り口喧嘩です。論理的であろうがなかろうが、言葉で言い争うこと、これを口論といいます。
討論(英:debate)は、対立意見に分かれて論理的に意見を闘わせることです。ディベートは言葉のスポーツとも言われます。高校生のディベート甲子園は有名ですね。
議論は、いくつかの意味をもつ言葉で、上の「ディベート」という意味で使われたり、国会で行われているような「議決」のことを指したり、あるいはこの記事のテーマでもある「ディスカッション」あるいは対話のことを指したり、と文脈によって意味が変わる言葉です。

日常会話で「対話」という言葉を使うことは極めて少ないですね。対立意見をもつ人達が、その不和を乗り越えてフェアな話し合いを試みる、というニュアンスが強い気がします。めったなことじゃ使わない。この「意見が異なる人達のフェアで自由な話し合い」は、私たちの生活環境にはあまりなじみがないんです。

「あなたのことは好きだけど、言っていることは間違っていると思う」と言うこと、結構難しいんですね。その理由は色々な本に書いていますが、平たく言うと「同じ意見=味方、違う意見=敵」という考え方が広く浸透している、という見解が多いですね。なかなか対立意見を「普通に」交換するのは難しい。だから議論というとほとんどの場合が討論で、しかも論理と感情を明確に分けて考える習慣がないから、討論と口論もほとんど同義で、「~論」というものは「対立」のイメージがあり、あまりポジティブには捉えられない。そんな気がします。

この記事のテーマでもある「ディスカッション」はとても建設的で有意義な行為です。それこそフェアだし、喧嘩じゃない。その話し合いに参加する全ての人にとって「よりよい妥協点」を目指す。今の社会にとっても必要なことだと思います。次回はこの「ディスカッション」について、色々な側面から考えてみたいと思います。

輝くテニス界。あの頃は若かった!そして今はビジネスへ。

最近の日本テニス界、すこぶる輝いてますよね。
私がテニスを始めたころは、テニスといえば女性のスポーツといった印象がちらほらあったように思います。

何事もなんかしらのきっかけから始まる


テニスを始めたきっかけは、
「個人競技で優勝したい!」
と思った中学入学期の1985年あたり。

しかし、、、無知でした。。
「ソフトテニスにはシングルスがない?!?!」

そう、それまで野球に明け暮れたおバカな私は、誰も注目していないこの競技ならテッペンとれるかも!?なんて安易な夢を描いていたのですね。
まーなんとおバカ。。

男子6人、女子20人ほどのテニス部に入り、まぁ肩身の狭いこと。。
とはいえ、持ち前の運動神経の良さ(今は不問・・)で新人戦では鹿児島ブロックで準優勝などしてしまうわけです。

きっかけはなんであれ、火が付きました(ゴォ〜〜〜メラメラ!)

それからテニス雑誌を買っては当時のプロテニスプレーヤーのフォームを真似るわけです。

名プレイヤーに真似てみる!


80年代のテニスは本当に面白かった。
役者が揃ってましたね。

男子では、アガシ、ベッカー、サンプラス、マッケンロー、レンドル、チャンetc.
女子は、ナブラチロワ、エバート、セレシュ、サンチェス、サバティーニetc.

中でも注目したのはこの2人。

ステファン・エドバーグ(通称エドベリ)
シュテフィ・グラフ


グラフは強かった。。
永遠に続くんじゃないか?!って思わせる圧巻の377週通算世界ランク1位。
特に、87年の全仏オープン。
ナブラチロワとの一戦は、千代の富士対貴乃花戦のようななんとも印象に残る感動した試合でした。
彼女のオープンスタンスで切るフォアハンドをよく真似たものです。
結果、基本がなおざりになりオリジナルフォームにw


一方のエドベリ。
「スウェーデンの貴公子」と称された彼は、まぁ女性に大人気。
プレースタイルも当時のライバルであったベッカーやレンドルとは対照的にしなやか。
(暴れん坊のマッケンローとは敢えて比較しないw)
いつも世界ランク3位前後を行ったり来たりってのも私的には期待値を持っていられる名選手でしたね。
彼のサービスは腰をグリッ!と折り曲げ、力強くはないけれどなんとも綺麗。
それを真似た結果、肩を故障し、腰はぎっくり腰に。。w

http://youtu.be/G2rEWnC5NNw
(引用元:youtube)

「龍の物語」にみる成功への道しるべ


私は占いや占星術なるものに特段の興味は持ってません。
ただ、易経にある「龍の物語」は、人生を生きるうえでの指標としています。

地に潜み隠れていた龍が、もろもろの過程を経て、大空に昇り飛龍になって、やがて衰退していくという物語。

易経は帝王学の書として発展するわけですが、天下を治める長になるまでの変遷のプロセスは自分を俯瞰し、自分の位置を知る上で参考になります。

なぜ突然その話?って思いますよね。

いえ、特に深い意味はないんですけど、
先に挙げた往年の名プレイヤーも天下を取るために、

・志を立て(潜龍)
・真似て(見龍)
・技を磨き(乾てき)
・志を忘れず、力を呼び起こし(踊龍)
・価値ある影響を与える(飛龍)
・そしてそれぞれの終焉を迎える(亢龍)


こういった過程を経ているのだと思うのです。

これはテニスに限らず、ビジネスでも同じこと。

明確な目標と目的意識をもって、価値あるなにかを多くの人に示し、共有したいものです。

さて、私も初心にかえり今日も一日目標に向かって進みます。
この写真を友人から久しぶりに送ってもらいそう思ったのでした。
(大学1年かな?の頃w悪友と共に。)

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ということで宣誓します!

「テニスを再開します!」

ではごきげんよう!

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リア充・非リア充

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昨日私が長崎でやっているラジオ番組の打ち合わせで、表題の「リア充・非リア充」について話しました。

リア充(ウィキペディア 一部抜粋)

リア充(リアじゅう)とは、リアル(現実)の生活が充実している人物を指す2ちゃんねる発祥のインターネットスラングで、若者言葉でもある。概念自体は2005年頃に2ちゃんねるの大学生活板で成立しリアル充実組と呼ばれていたが、2006年初頭に今のリア充の形として使われ始めた。当初は、インターネット上のコミュニティに入り浸る者が、現実生活が充実していないことを自虐的に表現するための対語的造語だった。その後、このニュアンスは、携帯電話を介したネットの利用者たちが流入するにつれ、彼らの恋愛や仕事の充実ぶりに対する妬みへと変化していった。


非リア充(ニコニコ大百科 一部抜粋)

非リア充(略称:非リア)とは、恋愛や仕事などの現実生活(リアル生活)が充実していない人間のこと。または、非リアル生活が充実している人間のこと。対義語はリア充。ネットやマルチメディア鑑賞、ゲームなどのオタク系趣味を好む傾向があり、リア充への嫉妬に似た嫌悪感を抱いていることが多い。コミュニケーション能力に乏しいなど何らかの理由で現実における対人活動を避けるが、一律に根暗や人嫌いというわけではなく、ネット上における対人活動(主に匿名)は通常にこなせるケースが殆どである。


私が大学でやっているサークルには、大学生、大学院生、留学生、若手社会人が集まります。そこで色んなテーマを、ああでもないこうでもないとディスカッションし、一部ラジオやYouTubeの番組として収録します。世代的にも、この話題はとても盛り上がる話題でした。インターネットが普及し、テクノロジーが進歩して、”バーチャル”リアリティーの”バーチャル”が全然虚ろではなくなってきている中、現実世界での成功を大切としない、という考え方が市民権を得ています。まだまだ”リアルを大切にする”考え方と比べて等価とはいえない扱いですが、ネットワークとテクノロジーがもっともっと進歩すれば、未来はどうなるかわかりません。

私たちの世代は既に、「バーチャルの心地よさ」を知っています。社会的成功も革命も、恋愛も結婚も、闘・食・性すべての成果が、疑似的にですが、比較的簡単に手に入ります。しかもそのソフトの数たるや無限ともいえるほどで、一生かかっても経験しつくせないくらいの疑似体験が、毎日のように世に出され、刺激的に更新され続けています。

仕事は苦痛、勉強は苦痛、人間関係も苦痛・・なぜなら思い通りにならないから。それを変えようとすれば努力が必要だし、努力したからといって必ず報われるわけではない。他に選択肢がなかった時代は、その結果を受け入れざるを得なかったけれど、今は時間と労力さえかければ必ず報われる世界がある。どうしてそれを生活の第一に置かないことがあろうか。

こういう風に考えることは、私たちの世代なら、「了解可能」なはずです。しかし、これを「リアルを大事にする考え方と等価の選択肢」と言ってしまうと、競争社会は回らなくなる。かといって、膨張するこの市場を否定するわけにはいかない。そういうジレンマが社会にもあるはずです。当の本人はというと、「リアルが大切だ」というのを第一としつつも、第二の世界をしっかり大切にしている。ちょうど江戸時代の隠れキリシタンのようなものでしょうか。

リアルだけで生きて、勝者と敗者に分かれる。
リアルを第一として、バーチャルを第二とする。リアルでうまくいかなくても、バーチャルでうまくいく。
リアルでの生活は、はなっからあきらめて、バーチャルでの生活を第一とする。

色んな生き方があります。どれが一番いいのか。答えは出ないかもしれません。
次回はさらにつっこんで、この問題を取り上げたいと思います。

茅野龍馬

Web制作系でうまくいかないアルアル。そりゃそうでしょ。

今日はお仕事絡みのおはなし。

Web制作、開発、運用を生業とする小生。
たまにこんな言葉を聞く事があります。

「難しいこと分からないから、任せるよ。」


まぁ世間を見るとうちの業界のみではなく、よくあるあるな言葉ですわね。
保険契約、通信系契約、まぁよくもこんな小さな文字で何ページも何ページも。。
そんなん理解できんから、「もぉ〜あんたに任せるわっ にこっ」

ちょっと待っておくんなさい!お客様っっ。

そう、ご想像に易く、だいたいこういったケースは

・制作、開発工数超過
  ★心理:制作会社は悩みまくる・・、暗くなる
・コストの圧迫(赤字)
  ★心理:担当者はハゲる・・
・要件の後追い積み上げ
  ★心理:ストレスのボルテージMAX、海に叫ぶ
  例:「任せたけど、やっぱりここはこうしてよ!」
  例:「この機能追加できるでしょ?大した作業じゃなさそうだし。」
・ローンチ後の追加改修
  ★心理:お客様、制作会社ともにぎくしゃく
・運用の破綻

そして、
・作ったはいいけれど。。。
となるわけですわな。

さて、問題はどこにあると思いますか?


私の持論ですが、この問題は発注者、受注者双方にあります。

まず、発注者の問題点
ズバリ、懐深いパフォーマンスは無用でございます。
こころの入っていない成果物に振り向く人なんておらしません。

次、受注者の問題点
ズバリ、受けちゃいかんでしょ。
責任、そう説明責任からの共有理解&納得までコンコンとやる必要あるでしょうよ。

たしかにWebの世界って横文字が多くてその文字の理解を追いかけるだけでハードル高めに感じますよね。
そして、「あーわからん、この人分かってそうだから任せようかなー」なんて。

長々と話すのもなんなんで、今日は早めに結びます。

基本的に大事なのは「同程度の目線の高さ」


発注者、受注者ともに目的を明確に、ゴールを同じ温度感と理解で追求する。
それをそれぞれの立場で相互補助的に積み重ねていく作業が必要。

平たく言うとそんなとこでしょうか。

最後に、ちょっと例え話を。(弁護士編)


あなたは、他人と揉めてしまって、どうしても弁護士に相談しないといけなくなりました。
さて、弁護士さんに「なんか難しいから、任せるよ」。
それで受ける弁護士さんいるのかしら?
受けれないですよね?
背景と目的が見えないと、その解決方法すら引き出せないんですから。

そう、そういうことを言いたかったんです。

一緒に、◯◯(←皆さんの目的を入れてください)を産んでくれるWeb戦略を同じ目線で施策しましょ^^

最後に宣伝です 笑


あ、最後に、当社のコーポレートサイト、リニューアルしました〜^^
社内でみんなそれぞれの得意分野を生かして、同じ目線でコンコンと作ってますー。
(まだまだ表にでていないコンテンツが潜んでいるので乞うご期待!)
https://cocolabo.co.jp/
cocolabo


written by 岩下正法(ここらぼ代表)

古典

古典を読む楽しさ

古典

歴史の試練をくぐり抜けたベストセラー

中学生のころ、古文漢文の授業が始まって以来、古典の魅力にとりつかれ、色々と読んできました。我が家の本棚には、仕事で使う専門書とともに、たくさんの古典が並んでいます。何度読んでも飽きない、心の内側から感動する、という作品が数多くあり、毎日様々なことを学ばせてもらっています。

書店の店先には、そのとき人気のある作家のベストセラーが展示してあり、流行に応じて変わっていきます。一週間だけ並ぶものもあれば、一ヶ月のものもある。その後はというと、ほとんどが姿を消し、一部ジャンル分けされたコーナーや作家別のコーナーに続けて展示される。数年前にもてはやされた作家を、今は全く見かけなくなった、なんてことも少なくありません。最近は、純粋な文学作品よりも、自己啓発本やドキュメンタリーなどがベストセラーとして紹介されることが多いようです。そしてその多くは数ヶ月単位で姿を消す。次々に新しい作品が店頭に並び、消費されていく。「長く残る」というのは、それだけでとても大変だと感じます。

そういう意味で、古典はとてつもないベストセラーだと言えます。数百年・数千年読まれ続けている作品です。歴史の中で何人の手に取られ、読まれたか、想像しただけで圧倒されます。現代にいたっても、毎年一定数の人が新しくその本を購入し、色々な場所、例えばこういったブログなどでも度々引用される。さすがだな、と感じます。

私も古典を読む中で、その「普遍的価値」に度々勉強させられます。日本の古典だと、例えば枕草子や徒然草などは、物事の善し悪しのセンスを養ってくれますし、漢籍だと老子・荘子、四書(大学・中庸・論語・孟子)などは、大抵の悩み事に解決の糸口をくれるし、武経七書(孫子・呉子・六韜など)には処世の知恵がたくさんつまっています。

そうはいっても・・

面白い古典を買って読んでいるうちに、読みたい古典がたまっていき、なかなか現代の書籍を読む時間がつくれない、という状況が続いています。でもそれじゃあいけないと思っています。なぜなら、古典が古典として存在しているのは、それが書かれたころの人達がそれを愛し、それをその時代のベストセラーにしたからです。

よい作品を「残す」のは、その時代の人、現代なら現代人です。そういう意識をもって、古典を読み、今の書物を読む。歴史の連続性の中で豊かな人生を送るのは、簡単じゃないですね。

茅野龍馬

20141017紅葉

見える化から最適化へ。クイズ(初級編)です!

アクセス解析やってます?


やっぱりゴルフはファッションも大事。
そんな大阪の次郎さんは、とある祝日の昼下がり、それ系のファッションサイトAを見ていました。

 ▶午前11時からの30分間連続でじっくりと。
 ▶閲覧ページ数=9ページ

かたや、久しぶりに長崎に帰ってきた龍馬さん
次郎さんに負けまいと、たまたま同じファッションサイトAをみていました。

 ▶午前11時半から30分間
 ▶閲覧ページ数=5ページ

途中、来客があり
 ▶1時間ほど離席

戻ってから再度同じサイトにアクセス
 ▶午後12時半から20分間

途中10分間電話対応などしつつも、
 ▶閲覧ページ数=8ページ

さて、ここで問題です!


次郎さんと龍馬さんに限定して、ファッションサイトAのアクセス解析(Google Analytics利用)をした場合、
ファッションサイトAの、
Q1.全体のページビュー(PV)数は?
Q2.平均PV数は?
Q3.セッション数は?
Q4.ユニークユーザ(UU)数は?

アクセス解析を行う目的は何か?


141014

大様にして、
・運用サイトの現状把握
・広告効果測定
そういったところでしょう。

属に言う「見える化」ってやつです。

しかし私見ですけど、データが見えたところで、それを発展的に活用しないと無駄ですよね。
そのデータを見て、まとめるだけでも人の手がかかります。人件費です。
折角投資するなら、なんかしらの見返り、リターンまで追求してみませんか?

重要なのは、
「運用サイトと成果(コンバージョン)の最適化意識」
を持つ事です。

運用サイトの分析、それだけでは「利益」はでません。
分析結果に基づいた、検証や仮説を立てたうえで戦略的意思決定をし、やってみる。
そうして初めて利益につながるものです。

さて、答えとまとめです


A1. 22
A2. 11
A3. 3(次郎さん1,龍馬さん2)
※Google Analyticsの場合30分以内に再訪問した場合は、セッションが継続しているとみなされます
A4. 2(次郎さん+龍馬さん)

これは基本的な一部のデータを「見える化」したに過ぎません。
さて、あなたがWeb担当者なら、いかに最適化するための施策をうちますか?

ほんの一部の紹介ですが、Webを最大限に生かすための思考のスイッチになることを期待しつつ、
今宵も御機嫌ようです^^

written by 岩下正法(ここらぼ株式会社