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ディスカッションのすすめ ~その1:口論?討論?議論?~

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大学生のころから地元のFM局にお世話になり、番組を担当して、大学院生になった今も続けています。番組名は「More Discussion Club」。”もっとディスカッション・議論をしよう”という主旨で、周りの大学生や大学院生、若手社会人の方と一緒に、社会的なテーマを中心に、あーでもないこーでもない、とディスカッションしています。今日は番組での話を通して気づいたことをシェアしたいと思います。

口論?討論?議論?

私の親世代の方々に”議論”というと、”対立意見に分かれて相手を言い負かす行為”という意味合いで受け取られることが多いです。そして得てして「議論なんかしてもどうせ平行線で、何も解決しない」という言葉を添えられることが多い。この”相手を言い負かす”こと、平たく言えば口喧嘩が、日本における議論のイメージなんだ、と色々なところで実感します。

口論(英:quarrel)は、文字通り口喧嘩です。論理的であろうがなかろうが、言葉で言い争うこと、これを口論といいます。
討論(英:debate)は、対立意見に分かれて論理的に意見を闘わせることです。ディベートは言葉のスポーツとも言われます。高校生のディベート甲子園は有名ですね。
議論は、いくつかの意味をもつ言葉で、上の「ディベート」という意味で使われたり、国会で行われているような「議決」のことを指したり、あるいはこの記事のテーマでもある「ディスカッション」あるいは対話のことを指したり、と文脈によって意味が変わる言葉です。

日常会話で「対話」という言葉を使うことは極めて少ないですね。対立意見をもつ人達が、その不和を乗り越えてフェアな話し合いを試みる、というニュアンスが強い気がします。めったなことじゃ使わない。この「意見が異なる人達のフェアで自由な話し合い」は、私たちの生活環境にはあまりなじみがないんです。

「あなたのことは好きだけど、言っていることは間違っていると思う」と言うこと、結構難しいんですね。その理由は色々な本に書いていますが、平たく言うと「同じ意見=味方、違う意見=敵」という考え方が広く浸透している、という見解が多いですね。なかなか対立意見を「普通に」交換するのは難しい。だから議論というとほとんどの場合が討論で、しかも論理と感情を明確に分けて考える習慣がないから、討論と口論もほとんど同義で、「~論」というものは「対立」のイメージがあり、あまりポジティブには捉えられない。そんな気がします。

この記事のテーマでもある「ディスカッション」はとても建設的で有意義な行為です。それこそフェアだし、喧嘩じゃない。その話し合いに参加する全ての人にとって「よりよい妥協点」を目指す。今の社会にとっても必要なことだと思います。次回はこの「ディスカッション」について、色々な側面から考えてみたいと思います。

輝くテニス界。あの頃は若かった!そして今はビジネスへ。

最近の日本テニス界、すこぶる輝いてますよね。
私がテニスを始めたころは、テニスといえば女性のスポーツといった印象がちらほらあったように思います。

何事もなんかしらのきっかけから始まる


テニスを始めたきっかけは、
「個人競技で優勝したい!」
と思った中学入学期の1985年あたり。

しかし、、、無知でした。。
「ソフトテニスにはシングルスがない?!?!」

そう、それまで野球に明け暮れたおバカな私は、誰も注目していないこの競技ならテッペンとれるかも!?なんて安易な夢を描いていたのですね。
まーなんとおバカ。。

男子6人、女子20人ほどのテニス部に入り、まぁ肩身の狭いこと。。
とはいえ、持ち前の運動神経の良さ(今は不問・・)で新人戦では鹿児島ブロックで準優勝などしてしまうわけです。

きっかけはなんであれ、火が付きました(ゴォ〜〜〜メラメラ!)

それからテニス雑誌を買っては当時のプロテニスプレーヤーのフォームを真似るわけです。

名プレイヤーに真似てみる!


80年代のテニスは本当に面白かった。
役者が揃ってましたね。

男子では、アガシ、ベッカー、サンプラス、マッケンロー、レンドル、チャンetc.
女子は、ナブラチロワ、エバート、セレシュ、サンチェス、サバティーニetc.

中でも注目したのはこの2人。

ステファン・エドバーグ(通称エドベリ)
シュテフィ・グラフ


グラフは強かった。。
永遠に続くんじゃないか?!って思わせる圧巻の377週通算世界ランク1位。
特に、87年の全仏オープン。
ナブラチロワとの一戦は、千代の富士対貴乃花戦のようななんとも印象に残る感動した試合でした。
彼女のオープンスタンスで切るフォアハンドをよく真似たものです。
結果、基本がなおざりになりオリジナルフォームにw


一方のエドベリ。
「スウェーデンの貴公子」と称された彼は、まぁ女性に大人気。
プレースタイルも当時のライバルであったベッカーやレンドルとは対照的にしなやか。
(暴れん坊のマッケンローとは敢えて比較しないw)
いつも世界ランク3位前後を行ったり来たりってのも私的には期待値を持っていられる名選手でしたね。
彼のサービスは腰をグリッ!と折り曲げ、力強くはないけれどなんとも綺麗。
それを真似た結果、肩を故障し、腰はぎっくり腰に。。w

http://youtu.be/G2rEWnC5NNw
(引用元:youtube)

「龍の物語」にみる成功への道しるべ


私は占いや占星術なるものに特段の興味は持ってません。
ただ、易経にある「龍の物語」は、人生を生きるうえでの指標としています。

地に潜み隠れていた龍が、もろもろの過程を経て、大空に昇り飛龍になって、やがて衰退していくという物語。

易経は帝王学の書として発展するわけですが、天下を治める長になるまでの変遷のプロセスは自分を俯瞰し、自分の位置を知る上で参考になります。

なぜ突然その話?って思いますよね。

いえ、特に深い意味はないんですけど、
先に挙げた往年の名プレイヤーも天下を取るために、

・志を立て(潜龍)
・真似て(見龍)
・技を磨き(乾てき)
・志を忘れず、力を呼び起こし(踊龍)
・価値ある影響を与える(飛龍)
・そしてそれぞれの終焉を迎える(亢龍)


こういった過程を経ているのだと思うのです。

これはテニスに限らず、ビジネスでも同じこと。

明確な目標と目的意識をもって、価値あるなにかを多くの人に示し、共有したいものです。

さて、私も初心にかえり今日も一日目標に向かって進みます。
この写真を友人から久しぶりに送ってもらいそう思ったのでした。
(大学1年かな?の頃w悪友と共に。)

tennis

ということで宣誓します!

「テニスを再開します!」

ではごきげんよう!

古典

古典を読む楽しさ

古典

歴史の試練をくぐり抜けたベストセラー

中学生のころ、古文漢文の授業が始まって以来、古典の魅力にとりつかれ、色々と読んできました。我が家の本棚には、仕事で使う専門書とともに、たくさんの古典が並んでいます。何度読んでも飽きない、心の内側から感動する、という作品が数多くあり、毎日様々なことを学ばせてもらっています。

書店の店先には、そのとき人気のある作家のベストセラーが展示してあり、流行に応じて変わっていきます。一週間だけ並ぶものもあれば、一ヶ月のものもある。その後はというと、ほとんどが姿を消し、一部ジャンル分けされたコーナーや作家別のコーナーに続けて展示される。数年前にもてはやされた作家を、今は全く見かけなくなった、なんてことも少なくありません。最近は、純粋な文学作品よりも、自己啓発本やドキュメンタリーなどがベストセラーとして紹介されることが多いようです。そしてその多くは数ヶ月単位で姿を消す。次々に新しい作品が店頭に並び、消費されていく。「長く残る」というのは、それだけでとても大変だと感じます。

そういう意味で、古典はとてつもないベストセラーだと言えます。数百年・数千年読まれ続けている作品です。歴史の中で何人の手に取られ、読まれたか、想像しただけで圧倒されます。現代にいたっても、毎年一定数の人が新しくその本を購入し、色々な場所、例えばこういったブログなどでも度々引用される。さすがだな、と感じます。

私も古典を読む中で、その「普遍的価値」に度々勉強させられます。日本の古典だと、例えば枕草子や徒然草などは、物事の善し悪しのセンスを養ってくれますし、漢籍だと老子・荘子、四書(大学・中庸・論語・孟子)などは、大抵の悩み事に解決の糸口をくれるし、武経七書(孫子・呉子・六韜など)には処世の知恵がたくさんつまっています。

そうはいっても・・

面白い古典を買って読んでいるうちに、読みたい古典がたまっていき、なかなか現代の書籍を読む時間がつくれない、という状況が続いています。でもそれじゃあいけないと思っています。なぜなら、古典が古典として存在しているのは、それが書かれたころの人達がそれを愛し、それをその時代のベストセラーにしたからです。

よい作品を「残す」のは、その時代の人、現代なら現代人です。そういう意識をもって、古典を読み、今の書物を読む。歴史の連続性の中で豊かな人生を送るのは、簡単じゃないですね。

茅野龍馬

20141017紅葉

拝啓G様〜和敬清寂への誘い〜

時として不愉快な気分になることがある。

久々の実家に帰省しようと九州新幹線に乗り込む。
連休前ということもあって、家族で南へ向かう笑顔あり、金髪の美女が旅行ガイドをみる姿あり、
観光とは関係なくスーツ姿で仕事に向かう者あり。
まぁ、社内はお弁当の匂いが空腹の私を刺激します。

私の席はD席。
ギリギリで乗り込んだので通路側の席にはスーツ姿のご年配がお座りになっております。

年齢は70歳をお過ぎでしょうか。
濃紺のスーツに白髪、眼鏡。
靴は磨かれている。

はい、社会的地位もあられるようなお人なりにござざいます。
これからGと呼びます。
(ジェンドルマンのGとでもw)

私「隣私の席でして、通していただけますか?すみません。」
G「・・・・・」
私「あのーすいません、通していただけますか?」
G「・・・・・(少し腰を引き、動線が3センチ広くなる)」
私「荷物があるので恐れ入ります、少しだけ立っていただけませんか?」
G「・・・・・(目が合う。しかし動かない)」


141010

結局、私の重い荷物は、私の腕力により宙に浮かび、Gの太ももの上、眼鏡の前10センチほどの距離を通過し、
シート前の空間に、ドン!と着地するのでした。

拝啓

暑い夏も過ぎ、秋さんまの美味しい季節がやってまいりました。
Gさま、いかがお過ごしですか?

その節は、
言葉も交わすことなく、一瞬目があったにせよそこに暖かみは感じられず、
私は悲しゅうございましたよ。

いえ、怒ってはおりません。
不愉快にはなりましたけど。

そう、あなたさまの身なりからは想像できないお振る舞いに、素直がっかりしてしまったのでございます。

私もできた人間ではまだまだございません。
しかし、人と人の関係性で成り立つこの世の中、気持ちよく過ごしたいものでございます。

そして年配の者は、後輩の者に対して行動規範となるべきにございませんでしょうか。

Gさま、お疲れだったのでしょうか。
でもですね、今日の態度は落第点とさせていただきます。

1つよい言葉をお送りさせていただきます。

和敬清寂。お調べください。

追伸:
足、そんなに広げたらワゴンサービスのスタッフが通路を通れませんよ。
ちょっとの思いやりに気付けるかどうかで人生の価値はかわると思いますよ。

敬具


こうしてまた、人のあるべき姿を考えてしまったわけです。

では、御機嫌よう。

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山之口貘

山之口貘

高田渡に引き続き、今度は詩人の紹介をしたいと思います。山之口貘という沖縄出身の詩人です。ずいぶん昔の人なんですが、高田渡の歌にはこの人の詩を歌ったものが少なくありません。

芸術は素晴らしい、としみじみ思うのは、先日引用した草枕で夏目漱石がいっていたように、世のしがらみをひと時離れて、本質と向き合うことができるからだなあと感じます。


座蒲団   

土の上には床がある
床の上には畳がある
畳の上にあるのが座蒲団でその上にあるのが楽という
楽の上にはなんにもないのであろうか
どうぞおしきなさいとすすめられて
楽に座ったさびしさよ
土の世界をはるかに見下ろしているように
住み馴れぬ世界がさびしいよ

〜詩集『思辨の苑』1938(昭和13)年より〜


生活に困っていた時期の多い彼は、その様子を隠すことなく、身の丈でたくさんの詩を書いています。芸術で暮らすのは簡単ではなく、時代のせいもあって、浮浪者として16年間暮らしていたそうです。しかしその間片時も詩を書くことはやめなかったと言います。そんな彼が、座布団の上に座るとき、こういうことを考える。私たちの生活にも似たようなことが言えるのではないか、そう感じます。


借金を背負って(1951年)

借りた金はすでに
じゅうまんえんを越えて来た
これらの金をぼくに
貸してくれた人々は色々で
なかには期限つきの条件のもあり
いつでもいいよと言ったのもあり
あずかりものを貸してあげるのだから
なるべく早く返してもらいたいと言ったのや
返すなんてそんなことなど
お気にされては困ると言うのもあったのだ
いずれにしても
背負って歩いていると
重たくなるのが借金なのだ
その日ばくは背負った借金のことを
じゅうまんだろうがなんじゅうまんだろうが
一挙に返済したくなったような
さっぱりしたい衝動にかられたのだ
ところが例によって
その日にまた一文もないので
借金を背負ったまま
借りに出かけたのだ


読んだらそのまま情景が分かる。すごく深刻で大変な状況なのが見て取れるんだけれども、詩を読むと、彼の精神は荒んでいない。貧乏でも金持ちでも、借金があってもなくても、土の上でも座布団の上でも、山之口貘はそのまんま山之口貘なんだと、彼の人間を感じます。

そのまんまは難しい

「そのまんまでいいよ」という本を中学生のころに読んだことがあります。ブッタとシッタカブッタという4コママンガのシリーズです。
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このマンガはとっても面白くて、何度読み返してもためになる。今も私の実家の本棚には3部シリーズが全部置いてあります。ブッダを模したブタこと「ブッタ」が、悩めるブタ「シッタカブッタ」と一緒に人生の悩み事を色々考える本です。

色々な名言が飛び交います。

自分の価値を押し付けるブタ

「勉強しなさい! いっぱい勉強していい学校へ入って いい会社にはいるのよ!」
「それからどうするの?」
「また、がんばって、エラくなるのよ」
「エラくなったら、どうなるの?」
「お金もちになったりして、シアワセになるのよ」
「シアワセって、そんなに先にいかなきゃないの?」



本当のボクという言いわけ

「本当のボクをみんなわかってくれない・・・」
「本当のあんたってどこにいるの?」



不幸を消す

幸福と不幸を2つに分けることをやめると 
不幸は消える 
ただ幸福も消えるけどね



振り返ると、色んな人が色んな言葉で、ありのままの大切さ、価値に多様性を持たせることの大切さを語ってきた(今この瞬間もたくさんの言葉が発されている)と感じます。あらそいごとの根っこには、「受け入れないこと」があります。どう頑張ったって受け入れ難いものもありますが、よく考えるとそれはごくごくわずかな気がします。自分のしてきた「あらそいごと」を振り返ると、何とまあ心の狭いこと、と思うことも少なくありません。もちろん文化ってのは、受け入れられるものとそうでないものを複雑に紡いできた歴史でもありますから、多様であればいいってわけでもないのですが・・

今日は最後に老子の二章を引用して終わります。

天下皆知美之爲美。斯惡已。
皆知善之爲善。斯不善已。
故有無相生、難易相成、長短相形、
高下相傾、音聲相和、前後相隨。
是以聖人、處無爲之事、行不言之教。
萬物作焉而不辭、生而不有、
爲而不恃、功成而弗居。
夫唯弗居、是以不去。

天下みな美の美たるを知るも、これ悪のみ。
みな善の善たるを知るも、これ不善のみ。
故(まこと)に有と無と相生じ、難と易と相成り、
長と短と相形(あらわ)れ、高と下と相傾き、
音と声と相和し、前と後相随(したが)う。
ここを以て聖人は、無為の事に処(お)り、
不言(ふげん)の教えを行なう。
万物ここに作(おこ)るも而(しか)も辞(ことば)せず、
生じるも而も有とせず、為すも而も恃(たの)まず、
功成るも而も居らず。
夫れ唯だ居らず、ここを以って去らず。

40にして思ふ。人のあるべき姿とは?

人生は長いもの。
そう感じ始めたのは40歳を越えてからでしょうか。

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生き方と生き様が人年輪になる


この年齢になると不思議と若い頃感じていたような、他人との年齢差は気にならなくなります。
むしろ、他人の生き方、そうですね“年輪”とでも言いましょうか、そっちの方を意識します。

街中を歩けば、当然いろんな年代の方とすれ違います。
綺麗な身なりで大口のサングラスをかけ、颯爽と歩く綺麗な女性。
短髪で見た目いかつそうだけれども、お年寄りに優しい笑顔で対応する男性。
腰は曲がってしまって自動販売機の釣り銭を漁る老女。

人生には生き方があり、その生き様が年輪として実年齢を無にして社会と同調します。

そういう目線でせっかく与えられたこの時間を見つめ直すと、
やはり「人のあるべき姿ってなんだ?」とか考える瞬間があるわけです。

孔子にみる人生観


孔子亡き後、その弟子達が生前交わした言葉をまとめた論語。
全20編からなるその為政第二にこんな言葉があります。

子曰く、
吾れ十有五にして学に志ざす。
三十にして立つ。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳従う。
七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず。


聞いたことありますよね。

ちょっと訳すとこうなります。

孔子は言います。私は、
十五の時に学問で身を立てようと決心しました。
三十の時に、学問などの基礎がきちっとして、独り立ちができるようになりました。
四十の時に、狭い見方に捕らわれることなく、心の迷いがなくなりました。
五十の時に、天が自分自身に与えた使命を自覚しました。
六十の時に、何を聞いても素直に受け入れることができるようになりました。
私は、七十の時に、自分がしたいと思う言動をしても、人の道を踏み外すことがなくなりました。

人生の第3クォーターに入って〜和敬清寂〜


私は人生を80年で捉え、20歳区切りで考えるようにしています。
ということは今は第3クォーターに入ったところです。

孔子に会えるものなら言葉を交わして振り返りと先の生き方を熟考したいものですが、そうはいきません。

であれば、自ら設計するのみです。

好きな言葉があります。「和敬清寂」
乱暴に要約すると、
・和を尊び
・人を敬い
・自らを清め
・寂然不動に構える


そんなことを考える珈琲ブレイクの時間でした。

※和敬清寂について詳しく知りたい方はこちらから(©おてらいふ)

せっかくもらった人としての人生。せっかくなら太く生きてみよう!
では、ごきげんよう!

ひとやすみ

タカダワタル

今日は私の好きなミュージシャンの紹介をしたいと思います。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%94%B0%E6%B8%A1

高田渡

この人を知ったのは、友人のブログを見て、YouTubeで見たのがきっかけです。インターネットのいいところは、”誰かが残せば残る”というところです。生産→流通→販売、という手続を、店舗を介さなければできなかったころは、”消えてなくなる”ものが、たくさんあったと思います。じゃあ今は”どんなものでもいつまでも”残るか、というとそういうわけではないのですが、流通にのっからなくても、広い範囲で有名にならなくても、”確かな価値(少なくとも一人以上の人が一定の期間以上、一定の熱意以上でその価値を支持する)”があれば、共有することが可能である、という時代にはなったと思います。

「放送禁止歌」の特集を友人がブログで共有していて、その中に、表記のミュージシャン高田渡の「自衛隊に入ろう」という曲が入っていました。自衛隊ができたころにつくられたこの歌、当時の社会情勢を思い起こして、「なんてオシャレな歌だ!」と思いました。

https://www.youtube.com/watch?v=YvAoC0uYXCk

それから色んな曲を、今レコードは手に入らないので、YouTubeや古いCDを通して聞くようになり、すっかりファンになってしまったのですが・・

このロメウスイッチでも、「考えるヒント」をくれるステキなミュージシャンだと思ったので、今日このように紹介しています。


例えば消費税増税。民主党政権のころ、管直人首相が10%に増税の話をしたときは、すごい剣幕でバッシングしていた世論が、現政権で8%に増税の際は驚くほど静かだったことは、記憶に新しいです。そのとき聞いた歌が、高田渡の「値上げ」です。

https://www.youtube.com/watch?v=U5lx64va3vo

矛盾の中で生きる

日本人として日本で暮らしていると、人権・個人・市民社会という西洋から輸入した概念と、江戸時代までに定着した身分の概念やモラルや価値を自身の内部ではなく集団に見出す考え方、などがせめぎ合い、多かれ少なかれ矛盾を感じながら生きる、というのは多くの人が経験していることだと思います。

例えば人間はみな平等、と社会や道徳で習いますが、国語では「立場の上下を意識することの大切さ」を敬語の授業で習います。基本的人権やひとりひとりの尊厳の大切さも授業で習いますが、テレビでは毎日のように、人格を否定し、尊厳を傷つけるような表現が目に入ってきます。倫理の授業では”共存の大切さ”も教わりますが、学校全体は”受験戦争”の真っただ中ですし、メディアは勝ち組負け組の差をこれでもかと見せつけるし、家庭でも競争で勝つことを強要する教育をすることが少なくありません。

習ってるそばから矛盾だらけな教育環境で私たちは育つわけです。先生たちもそれは知ってるはずなのですが、教科として教えることに終始して、なかなかそれ以上のことを教えるほど時間も手間もかけられない、というのが大勢のようです。かといって家庭やメディアでそれを修正してくれるわけでもない。どこの国にもどんな社会にも矛盾はありますが、少なくとも「葛藤の仕方」を教えてくれる環境が大切だと、個人的には思います。しかし多くの場合、「そういうもんだ」「仕方がない」という言葉しか返ってこない。。社会に出ても同じような、いやむしろもっとキレイゴトじゃない状況が続く。。

こんなときに聞くのが、「あきらめ節」です。

http://www.youtube.com/watch?v=3lgxJnBbxMc

世間を見渡すと、この西洋の概念を信じて推し進める人たちを概して左、日本・東洋の概念、その中でもとりわけ集団の概念を大切にして組織的に活動する人たちを概して右、という風に呼び、せめぎあっています。まだまだ社会がどういう形になるのか、答えは出ていないですね。ひとつの変化が社会に大きく影響し、たくさんの人が右往左往します。何が正しいか、なんてことはとても流動的で、社会全体が自己矛盾を抱えています。その狭間でたくさんの人が悩んでいることを、仕事や放送、NGOを通して目の当たりにします。「考える」という行為はとても孤独です。だからこそ相談するし、議論する。だからこそ芸術を愛するんだと、強く思います。


最後に夏目漱石の「草枕」を引用して終わります。

山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。
智ちに働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟さとった時、詩が生れて、画(え)が出来る。
人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容(くつろ)げて、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降くだる。あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊たっとい。


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ギリシャ Rhodes Youth Forum

国際アイディアコンテスト

ギリシャから投稿です。表記のRhodes Youth Forumは、5年前にヨーロッパで始まった企画で、世界中の若者がアイディアを競うコンテストです。毎年9月下旬〜10月上旬にギリシャのロードス島で開催されます。参加者はまず申請書類(履歴書・企画書など)を記載し、自身の企画についてのプレゼンテーションをビデオに撮ったものを添えて申請します。選考に通れば、旅費の一部に援助を受ける形で、ロードス島での選考会に参加することができます。選考に通らなかった場合も、見学者としての参加を受け付けています。選考は3〜4つのテーマ(毎年そのときの世界情勢によって変わります)にわかれており、各テーマ10〜20名、計50名程度がアイディアを競います。優勝者にはそのアイディアを形にするための賞金が出ます(最高150万円程度)。

今年のテーマは
Modern Learning Environment (教育・学習環境)
Youth Diplomacy and International Relations (外交における若者の役割と国際関係)
Social Enterpreneurship(社会的起業)


の3つで、見学者も含め、45ヶ国から100名程度の若者(20代〜30代)が参加しています。

私は去年のフォーラムで自身の国際企画を発表し、今年はその継続をテーマに講演を、ということで、ロードス島に来ています。とても綺麗な場所で、歴史もあって(7世紀ころのギリシャ文化)、ヨーロッパ中から観光客の来るリゾート地です。もし機会があれば、一度立ち寄られていはいかがでしょうか?

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国際交流としての意味

3つのテーマ全ての発表を拝見しましたが、参加者は皆、自身のアイディアを形にしようと熱気がこもっています。中には緊張して声がうわずったり、英語が母国語でないために質問の意味がわからず答えられない、というハプニングも認めますが、同年代の若者が、文字通り「切磋琢磨」する、エキサイティングな場です。

アイディアはそれこそ玉石混淆で、「中高生の自由課題かな」というものから、「国全体・世界全体を次のステージに進める」という意志や可能性を感じさせるものまで様々です。

こういったコンテストのいいところの一つは、参加者どうしが、”お互い頑張って競い合った仲間”という意識を持っているので、国をこえ、民族をこえて、深い交流ができるところだと思います。私も昨晩はセルビアからの参加者と、それぞれの国の問題やその共通点、市民社会とプロパガンダ、自身の生きる意味など(書いていて少し恥ずかしいですが)について、夜も遅くまで語り合っていました。互いの歩んできた人生に深く共感する部分があると、1時間も話せば旧知の仲のように打ち解けられる、ということを強く感じる貴重な機会でした。

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それとは別にRYF(Rhodes Youth Forum)のいいところは、音楽やダンスを大切にするところです。数名の参加者はプロのアーティストで、発表もしますが、初日のウェルカムパーティーでは演奏もしてくれます。ほとんどの参加者は初対面なので、初めは知らない顔ばかりなのですが、演奏を聞き、お酒を飲み、一緒に踊っている中でいつの間にか友達になっているんですね。そのとき仲良くなった人達とは、コンテストの間一緒に過ごすことが多くなるもんで、いわゆる“いい友達”が自然とできている。教授も社長も政治家も、医者も弁護士も芸能人も、学生でも無職でも、つまり自身が何者でも、“何かをもって”そこに参加していれば、対等に尊敬し合う仲間だし、歌ったり踊ったりする中では肩書きは関係なく、人間と人間の付き合いができるところも魅力のひとつです。

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刺激的な講演

コンテストは3日間にわたって行われますが、競技自体は最初の1日で、2日目3日目はワークショップや講演がメインです。国際交流や起業、イノベーション、などをテーマにコンテストをするわけですから、講演するゲストもいわゆる「成功者」の人達で、世界展開するビジネスを手がけている人、著名な作家、高名な学者がほとんどです。そういう人達が3日間の間で何度もパネルディスカッションを行い、コンテストの進行に伴って、「これでもか」というくらい、たくさんのアドバイスを若者に伝えます。会場からもどんどん質問が出て、質問から議論が生まれ、いくら話しても話足りない、という雰囲気の中でひとつのセッションが終わり、休憩をはさんで次のセッションへ、と・・刺激的で充実した時間を過ごすことができます。

今回とても印象に残ったゲストは
Peter Löscher(オーストリア人)という方で、世界的製薬会社の社長です(wikipedia参照)。
ひとつひとつの言葉に重みがあり、またとても気さくな方で、会議のときはもちろん、食事やパーティーのときも、自然体で話ができるジェントルマンでした。

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フォーラムの様子は近いうちに動画で編集してYouTubeで紹介します。
今日は彼の言葉で、すごく感動したものを紹介して終わろうと思います。

Never ever compromise your personal integrity
自分自身(の理念、誠実さ)に妥協しないこと。

You are respected when you respect others.
You are trusted when you trust others.

人を敬うから自分も大切にされる。人を信じるから自分も信用される。

Be competent and confident
努力をしなさい(有能であれ)。そして誇りを持ちなさい。

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いい人ぶらずに生きる(1)

花子とアン、おひさま。
いずれもNHKの連続テレビ小説です。
その時代構成は近く、戦前戦後の日本人、その時代に生きる人と人の係わり合い、心の機微をそれぞれの視点で構成、展開されています。

休日の昼下がり、戦後の日本人の前に進もうとする人間模様をドラマに見ながら、ふっと思い出した書籍がありました。

「いい人ぶらずに生きてみよう」


いい人ぶらずにいきてみようこれは数年前、わたしが今後の生き方と人生について考えていた時期にであった一冊です。

なんとなく自暴自棄になったかと思えば、心のどこかで希望の光を探している。
そんな情緒不安定の中、悶えているのかなんなのか、自分でも自分が見えないなかで「そっ」と私のもとに来てくれた書籍でしたね。

そう、タイトルにびびっときました。

千 玄室(せん げんしつ)
京都生まれの茶人で茶道裏千家第15代家元の著です。

氏は著のなかで、先述のドラマ同様の時代を生き抜き、その時代に生きたものとしての率直な感情を記してくれています。
そして茶を通して日本のみならず海外にも渡り、人のあり方を提言してくれました。

なぜこの書籍に出逢い惹かれたのか。


ー 周りに合わせる価値観の基準の中で生きていたから。

一言で言えばそこでしょう。

私は常に夢をもち、やりたいことを未来にみている、はずでした。
でもその当時、それを実現するには越えなければならない明確な課題があったのです。
人との関わり方と自己表現の無能さに究極に悩んでしまった。
結果、人を信じられなくなり、それを突破できるだけの力がない自分の弱さに落胆していましたね。

でも気付かせてくれたんです。

その一節を紹介します。


価値観の基準を周囲ではなく自分自身に定める。
それは、時に誤解を受ける事もあれば、非難をされることもあるでしょう。
けれど、ちまちまと人の目を気にして、自分を繕って生きていくしんどさと比べた時、
さて、どちらが価値のある、そして自分自身が本当の意味で楽になれる生き方なのか?


当時の私には刺さりました。
グッと来ました。
大げさではなく涙を流しました。

シンプルに考えさせてくれたことで「変われる気」がしたのです。

続きは次回。今日はここまで。

ナンバーワン?オンリーワン?


今日は「ナンバーワン」「オンリーワン」という言葉について考えてみたいと思います。


生きるって大変

現代社会はとても複雑な競争社会です。「目に見える範囲」以上のことを意識して理解していないと、この競争社会ではうまく立ち回れません。

技術も制度も高度で複雑。それをきちんと理解し、処理・利用できる人たちが、共同体や社会を動かしていく能力を評価されて、”動かす側”として、責任ある立場についたり高い給料をもらったりします。

逆に複雑で高度な技術・制度を”処理・利用できない(末端事象のみに感覚的に関わる)”人たちは、どちらかと言えば”動かされる側”に回り、前者と比べれば給料も責任も低い。

最近は社会が複雑になり、いわゆる”動かす側””動かされる側”に大きな隔たりができて、給料や評価の面でも大きな差がついているため、前者を「勝ち組」、後者を「負け組」と呼ぶことがポピュラーになってきています。

ナンバーワンとオンリーワン

その複雑な仕組みの中で、一歩先の技術を創造したり、一歩先の制度を組み立てたりして、「オンリーワン」の何かを得る人たちがいます。そういう人たちを世間では「パイオニア」と呼んだり、「天才」と呼んだりして高い評価をします。

一方で、すでにある競争体系の中でトップランナーになることも、勝者として評価されます。どちらかというと、こっちの方が一般的ですね。その種類はは色々あって、いわゆる一般的なビジネスのシーンで会社同士の競争、会社内での競争、芸能やスポーツなどにおける競争、既得権益内での競争などなど、様々です。

それぞれの競争体系の中で先に述べた「勝ち組」に回れる人の数はある程度決まっていて、その枠に収まる人数や割合が多かったり、その枠に収まるまでの道のりがある程度分析されている(運の要素が低い)ものを、「安定した業界」「安定した職業」といい、たくさんの人が競争に参加します。

逆に小さい枠の業界、勝つための道のりが広くは知られていない業界は、「運」「才能」という要素が占める割合が大きいと考えられ、この業界での「勝ち組」は前述の「オンリーワン」に近い評価をうけます。

何を目指すのか

オンリーワンもナンバーワンも、その言葉の裏には競争があります。

競争という概念を用いないならば、オンリーという必要もなく、ナンバーをつける必要もないわけです。

だから、
「人間はみなそれぞれが大切なオンリーワンなんだから、順番を競わなくていいんだ」
という言葉は、ややもすれば、すでにこの言葉の中でで自己矛盾に陥ってしまうんです。

”競争概念ですべてを評価せず、個々の尊厳が尊重される社会をつくっていきましょう”、という意味で、上の言葉には意味があります。でも、競争概念を基礎におきながら、努力もチャレンジもせずに、上の言葉の字面をなぞって、自身があたかも競争社会で勝ち残った人たちと同じかそれ以上の結果を出したかのような錯覚を覚える、という風なことになれば、本末転倒です。

ギスギスした競争社会やそれが生み出す理不尽なヒエラルキーに異をとなえるわけでも、競争の概念を弱めて調和に富んだ社会に貢献するわけでもなく、ただただ易きに流れ、つかの間の優越感を得るために、オンリーワンとかナンバーワンとかいう言葉を自分の都合で使いまわす、というのであれば、何とも悲しいことだと思います。

社会の全体像をとらえて、「個」としての自分の位置を知り、自分にできることを、きちんと理解して行う。
そのように考えると、競争があろうがなかろうが、自身で自身の役割や行動を評価することができます。
そうしたときに、「価値ある個」としての自分を認識することができ、活き活きと毎日を過ごす原動力になるのかもしれませんね。

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