タグ別アーカイブ: 人生

40にして思ふ。人のあるべき姿とは?

人生は長いもの。
そう感じ始めたのは40歳を越えてからでしょうか。

family

生き方と生き様が人年輪になる


この年齢になると不思議と若い頃感じていたような、他人との年齢差は気にならなくなります。
むしろ、他人の生き方、そうですね“年輪”とでも言いましょうか、そっちの方を意識します。

街中を歩けば、当然いろんな年代の方とすれ違います。
綺麗な身なりで大口のサングラスをかけ、颯爽と歩く綺麗な女性。
短髪で見た目いかつそうだけれども、お年寄りに優しい笑顔で対応する男性。
腰は曲がってしまって自動販売機の釣り銭を漁る老女。

人生には生き方があり、その生き様が年輪として実年齢を無にして社会と同調します。

そういう目線でせっかく与えられたこの時間を見つめ直すと、
やはり「人のあるべき姿ってなんだ?」とか考える瞬間があるわけです。

孔子にみる人生観


孔子亡き後、その弟子達が生前交わした言葉をまとめた論語。
全20編からなるその為政第二にこんな言葉があります。

子曰く、
吾れ十有五にして学に志ざす。
三十にして立つ。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳従う。
七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず。


聞いたことありますよね。

ちょっと訳すとこうなります。

孔子は言います。私は、
十五の時に学問で身を立てようと決心しました。
三十の時に、学問などの基礎がきちっとして、独り立ちができるようになりました。
四十の時に、狭い見方に捕らわれることなく、心の迷いがなくなりました。
五十の時に、天が自分自身に与えた使命を自覚しました。
六十の時に、何を聞いても素直に受け入れることができるようになりました。
私は、七十の時に、自分がしたいと思う言動をしても、人の道を踏み外すことがなくなりました。

人生の第3クォーターに入って〜和敬清寂〜


私は人生を80年で捉え、20歳区切りで考えるようにしています。
ということは今は第3クォーターに入ったところです。

孔子に会えるものなら言葉を交わして振り返りと先の生き方を熟考したいものですが、そうはいきません。

であれば、自ら設計するのみです。

好きな言葉があります。「和敬清寂」
乱暴に要約すると、
・和を尊び
・人を敬い
・自らを清め
・寂然不動に構える


そんなことを考える珈琲ブレイクの時間でした。

※和敬清寂について詳しく知りたい方はこちらから(©おてらいふ)

せっかくもらった人としての人生。せっかくなら太く生きてみよう!
では、ごきげんよう!

11110

いい人ぶらずに生きる(1)

花子とアン、おひさま。
いずれもNHKの連続テレビ小説です。
その時代構成は近く、戦前戦後の日本人、その時代に生きる人と人の係わり合い、心の機微をそれぞれの視点で構成、展開されています。

休日の昼下がり、戦後の日本人の前に進もうとする人間模様をドラマに見ながら、ふっと思い出した書籍がありました。

「いい人ぶらずに生きてみよう」


いい人ぶらずにいきてみようこれは数年前、わたしが今後の生き方と人生について考えていた時期にであった一冊です。

なんとなく自暴自棄になったかと思えば、心のどこかで希望の光を探している。
そんな情緒不安定の中、悶えているのかなんなのか、自分でも自分が見えないなかで「そっ」と私のもとに来てくれた書籍でしたね。

そう、タイトルにびびっときました。

千 玄室(せん げんしつ)
京都生まれの茶人で茶道裏千家第15代家元の著です。

氏は著のなかで、先述のドラマ同様の時代を生き抜き、その時代に生きたものとしての率直な感情を記してくれています。
そして茶を通して日本のみならず海外にも渡り、人のあり方を提言してくれました。

なぜこの書籍に出逢い惹かれたのか。


ー 周りに合わせる価値観の基準の中で生きていたから。

一言で言えばそこでしょう。

私は常に夢をもち、やりたいことを未来にみている、はずでした。
でもその当時、それを実現するには越えなければならない明確な課題があったのです。
人との関わり方と自己表現の無能さに究極に悩んでしまった。
結果、人を信じられなくなり、それを突破できるだけの力がない自分の弱さに落胆していましたね。

でも気付かせてくれたんです。

その一節を紹介します。


価値観の基準を周囲ではなく自分自身に定める。
それは、時に誤解を受ける事もあれば、非難をされることもあるでしょう。
けれど、ちまちまと人の目を気にして、自分を繕って生きていくしんどさと比べた時、
さて、どちらが価値のある、そして自分自身が本当の意味で楽になれる生き方なのか?


当時の私には刺さりました。
グッと来ました。
大げさではなく涙を流しました。

シンプルに考えさせてくれたことで「変われる気」がしたのです。

続きは次回。今日はここまで。