月別アーカイブ: 2014年10月

ひとやすみ

タカダワタル

今日は私の好きなミュージシャンの紹介をしたいと思います。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%94%B0%E6%B8%A1

高田渡

この人を知ったのは、友人のブログを見て、YouTubeで見たのがきっかけです。インターネットのいいところは、”誰かが残せば残る”というところです。生産→流通→販売、という手続を、店舗を介さなければできなかったころは、”消えてなくなる”ものが、たくさんあったと思います。じゃあ今は”どんなものでもいつまでも”残るか、というとそういうわけではないのですが、流通にのっからなくても、広い範囲で有名にならなくても、”確かな価値(少なくとも一人以上の人が一定の期間以上、一定の熱意以上でその価値を支持する)”があれば、共有することが可能である、という時代にはなったと思います。

「放送禁止歌」の特集を友人がブログで共有していて、その中に、表記のミュージシャン高田渡の「自衛隊に入ろう」という曲が入っていました。自衛隊ができたころにつくられたこの歌、当時の社会情勢を思い起こして、「なんてオシャレな歌だ!」と思いました。

https://www.youtube.com/watch?v=YvAoC0uYXCk

それから色んな曲を、今レコードは手に入らないので、YouTubeや古いCDを通して聞くようになり、すっかりファンになってしまったのですが・・

このロメウスイッチでも、「考えるヒント」をくれるステキなミュージシャンだと思ったので、今日このように紹介しています。


例えば消費税増税。民主党政権のころ、管直人首相が10%に増税の話をしたときは、すごい剣幕でバッシングしていた世論が、現政権で8%に増税の際は驚くほど静かだったことは、記憶に新しいです。そのとき聞いた歌が、高田渡の「値上げ」です。

https://www.youtube.com/watch?v=U5lx64va3vo

矛盾の中で生きる

日本人として日本で暮らしていると、人権・個人・市民社会という西洋から輸入した概念と、江戸時代までに定着した身分の概念やモラルや価値を自身の内部ではなく集団に見出す考え方、などがせめぎ合い、多かれ少なかれ矛盾を感じながら生きる、というのは多くの人が経験していることだと思います。

例えば人間はみな平等、と社会や道徳で習いますが、国語では「立場の上下を意識することの大切さ」を敬語の授業で習います。基本的人権やひとりひとりの尊厳の大切さも授業で習いますが、テレビでは毎日のように、人格を否定し、尊厳を傷つけるような表現が目に入ってきます。倫理の授業では”共存の大切さ”も教わりますが、学校全体は”受験戦争”の真っただ中ですし、メディアは勝ち組負け組の差をこれでもかと見せつけるし、家庭でも競争で勝つことを強要する教育をすることが少なくありません。

習ってるそばから矛盾だらけな教育環境で私たちは育つわけです。先生たちもそれは知ってるはずなのですが、教科として教えることに終始して、なかなかそれ以上のことを教えるほど時間も手間もかけられない、というのが大勢のようです。かといって家庭やメディアでそれを修正してくれるわけでもない。どこの国にもどんな社会にも矛盾はありますが、少なくとも「葛藤の仕方」を教えてくれる環境が大切だと、個人的には思います。しかし多くの場合、「そういうもんだ」「仕方がない」という言葉しか返ってこない。。社会に出ても同じような、いやむしろもっとキレイゴトじゃない状況が続く。。

こんなときに聞くのが、「あきらめ節」です。

http://www.youtube.com/watch?v=3lgxJnBbxMc

世間を見渡すと、この西洋の概念を信じて推し進める人たちを概して左、日本・東洋の概念、その中でもとりわけ集団の概念を大切にして組織的に活動する人たちを概して右、という風に呼び、せめぎあっています。まだまだ社会がどういう形になるのか、答えは出ていないですね。ひとつの変化が社会に大きく影響し、たくさんの人が右往左往します。何が正しいか、なんてことはとても流動的で、社会全体が自己矛盾を抱えています。その狭間でたくさんの人が悩んでいることを、仕事や放送、NGOを通して目の当たりにします。「考える」という行為はとても孤独です。だからこそ相談するし、議論する。だからこそ芸術を愛するんだと、強く思います。


最後に夏目漱石の「草枕」を引用して終わります。

山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。
智ちに働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟さとった時、詩が生れて、画(え)が出来る。
人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容(くつろ)げて、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降くだる。あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊たっとい。


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言語と思考

ハマド国際空港

ドーハから投稿です。ハマド国際空港は、カタールの新しい玄関で、とても機能的な空港です。カタールは、アジア、ヨーロッパ、アフリカの中継地点として、ドーハの空港に昼夜を問わずたくさんの旅客が出入りします。そのドーハに新拠点「ハマド国際空港」ができ、今回のギリシャへの旅でも使わせてもらいました。トランジット(乗り換え)の人がほとんどなので、空港のつくりはシンプルです。中心に色んなレストランやお店が集まるスクエアがあって、そこから放射状に各ターミナルへの道がつながる。手荷物検査の内外にお店があり、外がショッピングモールのようになっていて、中は売店がメイン、という日本の空港とは趣を異にするつくりです。

スクリーンショット 2014-10-02 10.17.00巨大な電光掲示板とテディ?ベア。手前には車が”DUTY FREE”で展示されています。

石油で潤うカタールらしい、贅沢なお店も見かけました。ロンドンを拠点に世界に支店を持つキャビア専門店、「Cavia House Purnier」です。「砂漠なのにシーフードかよ!」と言いたくなるくらい、伊勢エビ(ロブスター)、牡蠣、サーモン料理、そしてキャビアがずらりと置いてありました。お値段も通常の食事とは一桁違う出費を要するものばかりでした。フライトまで時間がなかったこともあり、メニューだけ見て素通りしようかと思いましたが、手頃に食べれるメニューもあって誘惑に負け、キャビアスプーン1杯(5g,約1500円)を注文し、キンキンに冷えたウォッカと一緒に食べました。新鮮な刺身と日本酒のような”絶妙な組み合わせ”だと感じました。もし旅行帰りに外貨が少し余っていたら、一度立ち寄られてはいかがでしょうか?間違いなくハマドで一番ステキなレストランの一つだと思います。

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言語と思考

さて、本題に入ります。今回参加したRhodes Youth Forumでは、とにかくたくさんの議論をしました。世界が直面する諸問題について、それこそ世界中から集まった人達が知恵を出し合って解決策を考えたり、それをもとにプロジェクトを立ち上げたりする、とてもアクティブな場でした。プロジェクトを申請しないといけない、という縛りがあるので、日本からの参加者は今回私ひとりだけでしたが、周囲の友人知人にも伝え、来年はこの”あたり前”をひとりでも多くの仲間と共有できればと思っています。

その中で一つ強く感じたのは、「使っている言語は違えど考えていることは一緒だ」ということです。私たちは日本語で思考し、日本語で話をします。外国人も一緒で、母国語で思考し、母国語で話をします。あたり前のことですが、外国にいくと忘れがちなことの一つでもあります。外国人と英語でコミュニケーションをとるとき、言いたいことが英語で言えなかったり、きちんと伝えられなかったりすると、「自分は相手より劣っている」とか「相手の方がものを知っていてよく考えている」ように感じてしまうことが多いのではないでしょうか?

でも、よく耳を傾けてみると…自分も考えたことがあるようなこと、普通にロジカルに考えれば出てくること、をハキハキと語っている、ということが多いです。むしろ東洋文化がベースにある私たちは、思考のバリエーションという意味で、ロジックと正義を基軸とする西洋の人達にはない視点を持っていることも少なからずあり、議論の幅を広げたり、解決策の種類を増やしたり、という部分に大きく貢献出来ると感じています。

表題の写真は私の参加したグループディスカッションの様子です。たまたまロシア・旧ソ連の人が多く、英語と一緒にロシア語が飛び交っていました。ロシア語はほとんどわかりませんが、間に入る英語や、司会の通訳で大体の内容を理解しながら議論しました。自己主張が強い人が多く、議論はときに本題からそれて盛り上がりを見せることも多かったです。そういうとき、私たちの感覚は、「ちゃんとお題に答える話し合いをしよう」と考えるものです。実際にそれを言うと、みんながハッと我に返る、ということもしばしば見かけました。

思考の大切さ

よく一緒に国際交流やプロジェクトをやる仲間と、「英語より日本語が大切」という話をします。母国語が日本語である以上、日本語による思考で到達した内容以上のことを、英語で表現できることはほとんどないからです。もっとかみ砕いた言葉で言うと、「日本語で大したことを言えない人は、英語でも大したことは言えない」。何語で話すにしろ、それなりのことを考えて行動していないと、どこに行ったって相手にされないものです。

最近は語学留学で半年や一年、アメリカやカナダに行く人も増えています。そこで英語がスムーズに話せるようになって帰ってくる。でも、言っていることの質が飛躍的に上がった、という人は見たことがありません。むしろ日常会話にやたらと横文字を混ぜるようになったり、何かとと英語を使ってみせたり、という何とも決まりの悪い癖を身につけてしまう、ということが目立つように思います。もちろん、2つの言語を使えることによって思考の幅が広がる、ということはあります。しかし、何にせよ「きちんと考える」「考えに基づいて行動する」ということをしていないと、何語でしゃべろうが中途半端で、「聞くに値しない」と評価される結果に陥ってしまうかもしれません。

逆に「話したい内容」を持っている人は、ゆっくりであれ、少々の不自然さはあれ、話を聞いてもらえるものです。そして、そのときに感じた「違和感」「不全感」は、その後の言語学習に対する大きなモチベーションとなります。私は語学留学をしたことはありませんが、国際的なプロジェクトに参加したり、外国人を自分のプロジェクトに巻き込んだり、ということを通して、今は不自由なくコミュニケーションを取ることができます。でもその根本は、「外国人に話したいこと」「外国でやりたいこと」がある、ということです。それがないと、易きに流れて続かないもんです。私たち日本人は幸い、日本で暮らす上で外国語を必要としません。ですから、日常生活の中にその必要性をつくる、ということはとても難しいんですね。だからこそ、「世界」を視野に何かを考えている人は、意識してその「何か」をもち、それを実行するために努力する、という習慣をもつことをおすすめします。

今回のギリシャ訪問で、一層言語習得に対するモチベーションが上がりました。言語習得の必要性については、日を改めてまた共有したいと思います。