タグ別アーカイブ: 国際

7880009_300x300

ギリシャ Rhodes Youth Forum

国際アイディアコンテスト

ギリシャから投稿です。表記のRhodes Youth Forumは、5年前にヨーロッパで始まった企画で、世界中の若者がアイディアを競うコンテストです。毎年9月下旬〜10月上旬にギリシャのロードス島で開催されます。参加者はまず申請書類(履歴書・企画書など)を記載し、自身の企画についてのプレゼンテーションをビデオに撮ったものを添えて申請します。選考に通れば、旅費の一部に援助を受ける形で、ロードス島での選考会に参加することができます。選考に通らなかった場合も、見学者としての参加を受け付けています。選考は3〜4つのテーマ(毎年そのときの世界情勢によって変わります)にわかれており、各テーマ10〜20名、計50名程度がアイディアを競います。優勝者にはそのアイディアを形にするための賞金が出ます(最高150万円程度)。

今年のテーマは
Modern Learning Environment (教育・学習環境)
Youth Diplomacy and International Relations (外交における若者の役割と国際関係)
Social Enterpreneurship(社会的起業)


の3つで、見学者も含め、45ヶ国から100名程度の若者(20代〜30代)が参加しています。

私は去年のフォーラムで自身の国際企画を発表し、今年はその継続をテーマに講演を、ということで、ロードス島に来ています。とても綺麗な場所で、歴史もあって(7世紀ころのギリシャ文化)、ヨーロッパ中から観光客の来るリゾート地です。もし機会があれば、一度立ち寄られていはいかがでしょうか?

IMG_0130

国際交流としての意味

3つのテーマ全ての発表を拝見しましたが、参加者は皆、自身のアイディアを形にしようと熱気がこもっています。中には緊張して声がうわずったり、英語が母国語でないために質問の意味がわからず答えられない、というハプニングも認めますが、同年代の若者が、文字通り「切磋琢磨」する、エキサイティングな場です。

アイディアはそれこそ玉石混淆で、「中高生の自由課題かな」というものから、「国全体・世界全体を次のステージに進める」という意志や可能性を感じさせるものまで様々です。

こういったコンテストのいいところの一つは、参加者どうしが、”お互い頑張って競い合った仲間”という意識を持っているので、国をこえ、民族をこえて、深い交流ができるところだと思います。私も昨晩はセルビアからの参加者と、それぞれの国の問題やその共通点、市民社会とプロパガンダ、自身の生きる意味など(書いていて少し恥ずかしいですが)について、夜も遅くまで語り合っていました。互いの歩んできた人生に深く共感する部分があると、1時間も話せば旧知の仲のように打ち解けられる、ということを強く感じる貴重な機会でした。

スクリーンショット 2014-09-27 14.18.36

それとは別にRYF(Rhodes Youth Forum)のいいところは、音楽やダンスを大切にするところです。数名の参加者はプロのアーティストで、発表もしますが、初日のウェルカムパーティーでは演奏もしてくれます。ほとんどの参加者は初対面なので、初めは知らない顔ばかりなのですが、演奏を聞き、お酒を飲み、一緒に踊っている中でいつの間にか友達になっているんですね。そのとき仲良くなった人達とは、コンテストの間一緒に過ごすことが多くなるもんで、いわゆる“いい友達”が自然とできている。教授も社長も政治家も、医者も弁護士も芸能人も、学生でも無職でも、つまり自身が何者でも、“何かをもって”そこに参加していれば、対等に尊敬し合う仲間だし、歌ったり踊ったりする中では肩書きは関係なく、人間と人間の付き合いができるところも魅力のひとつです。

1376341_590457391001208_1466205695_n

刺激的な講演

コンテストは3日間にわたって行われますが、競技自体は最初の1日で、2日目3日目はワークショップや講演がメインです。国際交流や起業、イノベーション、などをテーマにコンテストをするわけですから、講演するゲストもいわゆる「成功者」の人達で、世界展開するビジネスを手がけている人、著名な作家、高名な学者がほとんどです。そういう人達が3日間の間で何度もパネルディスカッションを行い、コンテストの進行に伴って、「これでもか」というくらい、たくさんのアドバイスを若者に伝えます。会場からもどんどん質問が出て、質問から議論が生まれ、いくら話しても話足りない、という雰囲気の中でひとつのセッションが終わり、休憩をはさんで次のセッションへ、と・・刺激的で充実した時間を過ごすことができます。

今回とても印象に残ったゲストは
Peter Löscher(オーストリア人)という方で、世界的製薬会社の社長です(wikipedia参照)。
ひとつひとつの言葉に重みがあり、またとても気さくな方で、会議のときはもちろん、食事やパーティーのときも、自然体で話ができるジェントルマンでした。

スクリーンショット 2014-09-27 14.17.57

フォーラムの様子は近いうちに動画で編集してYouTubeで紹介します。
今日は彼の言葉で、すごく感動したものを紹介して終わろうと思います。

Never ever compromise your personal integrity
自分自身(の理念、誠実さ)に妥協しないこと。

You are respected when you respect others.
You are trusted when you trust others.

人を敬うから自分も大切にされる。人を信じるから自分も信用される。

Be competent and confident
努力をしなさい(有能であれ)。そして誇りを持ちなさい。

国際人

国際人ってなんだろう?

国際人を尊ぶ傾向

先日母校の長崎大学で開かれた、「グローバル人材育成プログラム」のプレゼンテーション大会で、講演をさせてもらいました。テーマは、「国際人を目指す人達へのメッセージ」という、何とも大それたテーマで話をさせてもらいました。

講演の様子はYouTubeで見ることができます(後半6分くらい)。

http://youtu.be/kqftN9_IHFQ

昨今政府の支援もあって、全国的に「世界に打って出る人材」「世界を舞台に活躍できる人材」を育てるプログラムが盛んです。それをグローバル人材といって、「グローバル」「国際」という言葉もよく耳にするようになりました。技術が革新し、世界が昔より近くなった今、そのような考え方や試みが出てくることは自然で、様々なレベルで議論がされています。

毎度のパターンで恐縮ですが、果たして私たちの「ものの見方」はそれに伴って進歩しているのでしょうか?

グローバル、国際、NGO, NPO

グローバル人材、グローバル企業、グローバルビジネス
国際人、国際NGO(手前味噌ですが)、国際会議

色々な場面でこの国際・グローバルという言葉が使われます。また、国際的な活動をする人、広く社会に貢献する人たちはNPOやNGOで活動していることが少なくありません。そして何だかブランドめいた、ちょっとした憧れをもって語られることも多いです。でもそれって、そんなに「特別」なことなんでしょうか?


例えば町内会のゴミ拾い活動があります。それを何と呼びますか?「町内会の活動」です。しかし、それを全国で”活動”として展開すれば“NGO”と言ったり、その公益性を強調すれば“NPO”と言ったりします。やってることは同じゴミ拾いです。活動範囲や重視するものはどうあれ、それは”自分たちが住む地域”のためにやっている大切な活動だと思います。でも、昨今の流れを見ると、どこか広く展開したり公益性を重視したりすること、NGOと呼んだりNPOと呼んだりすることに何らかの「価値」を見出だし、自然なスタンスで地味にやることを「かっこ悪い」とか「損してる」とかいう風に低く評価する傾向があるように思えます。

例えば実家の隣にある八百屋さんのやってる仕事をなんと言いますか?「八百屋」です。でもその八百屋さんの店舗が拡大して、県内にチェーン店舗を展開すると、「中小企業」と呼ばれます。お隣の国に支店を出すと、「国際的にビジネスを展開する会社」と呼ばれ、いくつかの大陸に支店を出して、流通まで手がけると、「グローバルビジネス」と呼ばれる。やってることは同じ「野菜を売る商売」です。それを必要とする人達のための大切な生産活動です。でも、商売の範囲や複雑さが異なると、呼び方が変わり、その価値まで異なるかのように思われる。

そんな傾向が私たちにはあるような気がします。
一言でいうと、「言葉の中身を深く考えない癖」です。
それが色々な部分で弊害を生んでいるのではないか、というのが僕の意見です。

グローバル、国際という言葉だって、語源から考えれば全然違う言葉だけれど、同じような意味で使うことがほとんどで、あまりその中身について論じません。国家の存在を前提とし、国と国のキワ(間がら)を考えるのが国際であるのに対し、グローバル(globe:地球)は、国境を意識しません。でも、世界から国家がなくなったわけでも、一つの国が統一国家をつくったわけでもありません。世界は国と国との競争であり、その上に個々の競争がのっかっている、というのが実情です。


言葉の中身を考える習慣

既存の競争概念にのっとり、その中での優劣を競う、という感覚で国際人を語るなら、それはただ、収入が高いとか、外国語が話せてかっこいいとか、そういうことなんだと思います。あるいは日本の強さや素晴らしさを世界に示す、というナショナリスティックな意味を付加することもあります。

それが悪いというわけではないのですが、冒頭に述べたように、これだけ世界が近くなって、グローバルだとか国際だとかいうことを大切にしていくというなら、もう一歩踏み込んで考えてみてもいいのかな、と思います。例えば、「”国内ではできない何か”をやるために外国で頑張る人」とか、「技術的に近くなった世界を、本質的に次のステージに進めるために貢献する人」とか、”国際”という言葉の中に、何か夢や未来を感じるような思考があると、その言葉は活き活きとした”意味”を持ち、健全なモチベーションや評価につながると思います。

他の言葉も一緒で、言葉の意味を、既存の競争概念の中での価値だけで考えず、夢や未来を付加して考えることは、毎日の生活を活気づけるきっかけにもなります。子供のころ私たちはみんなそうだったのでは?大人になると色々と考えなきゃいけないことが増え、きれいごとじゃない部分がたくさんあることを知り、どうもそういう思考が苦手になってしまう傾向があるように思えます。もちろん何でもかんでも「元気があれば何でもできる」と言えばいい、というわけではないのですが、私たちが言葉を使って思考する人間である以上、言葉の使い方、言葉の捉え方を見つめてみる、というのはとても大切なことのように思えます。

今からギリシャです。「ソーシャルメディアと社会」というテーマで講演してきます。
その様子も追って紹介できればと思います。