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ナンバーワン?オンリーワン?


今日は「ナンバーワン」「オンリーワン」という言葉について考えてみたいと思います。


生きるって大変

現代社会はとても複雑な競争社会です。「目に見える範囲」以上のことを意識して理解していないと、この競争社会ではうまく立ち回れません。

技術も制度も高度で複雑。それをきちんと理解し、処理・利用できる人たちが、共同体や社会を動かしていく能力を評価されて、”動かす側”として、責任ある立場についたり高い給料をもらったりします。

逆に複雑で高度な技術・制度を”処理・利用できない(末端事象のみに感覚的に関わる)”人たちは、どちらかと言えば”動かされる側”に回り、前者と比べれば給料も責任も低い。

最近は社会が複雑になり、いわゆる”動かす側””動かされる側”に大きな隔たりができて、給料や評価の面でも大きな差がついているため、前者を「勝ち組」、後者を「負け組」と呼ぶことがポピュラーになってきています。

ナンバーワンとオンリーワン

その複雑な仕組みの中で、一歩先の技術を創造したり、一歩先の制度を組み立てたりして、「オンリーワン」の何かを得る人たちがいます。そういう人たちを世間では「パイオニア」と呼んだり、「天才」と呼んだりして高い評価をします。

一方で、すでにある競争体系の中でトップランナーになることも、勝者として評価されます。どちらかというと、こっちの方が一般的ですね。その種類はは色々あって、いわゆる一般的なビジネスのシーンで会社同士の競争、会社内での競争、芸能やスポーツなどにおける競争、既得権益内での競争などなど、様々です。

それぞれの競争体系の中で先に述べた「勝ち組」に回れる人の数はある程度決まっていて、その枠に収まる人数や割合が多かったり、その枠に収まるまでの道のりがある程度分析されている(運の要素が低い)ものを、「安定した業界」「安定した職業」といい、たくさんの人が競争に参加します。

逆に小さい枠の業界、勝つための道のりが広くは知られていない業界は、「運」「才能」という要素が占める割合が大きいと考えられ、この業界での「勝ち組」は前述の「オンリーワン」に近い評価をうけます。

何を目指すのか

オンリーワンもナンバーワンも、その言葉の裏には競争があります。

競争という概念を用いないならば、オンリーという必要もなく、ナンバーをつける必要もないわけです。

だから、
「人間はみなそれぞれが大切なオンリーワンなんだから、順番を競わなくていいんだ」
という言葉は、ややもすれば、すでにこの言葉の中でで自己矛盾に陥ってしまうんです。

”競争概念ですべてを評価せず、個々の尊厳が尊重される社会をつくっていきましょう”、という意味で、上の言葉には意味があります。でも、競争概念を基礎におきながら、努力もチャレンジもせずに、上の言葉の字面をなぞって、自身があたかも競争社会で勝ち残った人たちと同じかそれ以上の結果を出したかのような錯覚を覚える、という風なことになれば、本末転倒です。

ギスギスした競争社会やそれが生み出す理不尽なヒエラルキーに異をとなえるわけでも、競争の概念を弱めて調和に富んだ社会に貢献するわけでもなく、ただただ易きに流れ、つかの間の優越感を得るために、オンリーワンとかナンバーワンとかいう言葉を自分の都合で使いまわす、というのであれば、何とも悲しいことだと思います。

社会の全体像をとらえて、「個」としての自分の位置を知り、自分にできることを、きちんと理解して行う。
そのように考えると、競争があろうがなかろうが、自身で自身の役割や行動を評価することができます。
そうしたときに、「価値ある個」としての自分を認識することができ、活き活きと毎日を過ごす原動力になるのかもしれませんね。

ひとやすみ ひとやすみ

病気って?

医師の社会的責任~病気って何だろう~

医師の仕事

医師は、「病気を治す」のが仕事です。
そしてその「病気」は、“社会生活を営む上で有用性の低い少数派”と言い換えることができます。
例えばIQ(Intelligence Quotient : 知能指数)。IQが高いのも低いのも、統計的にみれば“異常”です。
でも、IQが高い人を病気とは言いません。逆にIQが低い人は、「精神発達遅滞」という診断を受けます。

色々な病気を“数“ “有用性”という観点で見てみる


咳が出すぎると苦しいです。
病院に行ったり薬を飲んだりします。
咳が一生の間全く出ない、という人がいたら、普通ではありません。
でも、生きていく上で問題がないので、敢えて病気とはいいません。
もし、世界中でたくさんの人が、咳が出て止まらない、ということがあったら、未知のウイルスの存在などを考えて大騒ぎです。

骨の強さ
脆い人は「骨粗鬆症」という診断をうけます。
強い人は「骨太」と言われてむしろほめられます。
でもそれは、あくまでも“一般的に想定される範囲内”の話で・・・
車にはねられても銃で撃たれても骨が一切傷つかない人がいたら、「同じ人間でない」可能性を考慮され、大騒ぎです。

記憶力
他の人と比べて悪すぎると「記銘力障害」と言われたり、他の症状もあると「認知症」と言われたりします。前述のIQの低さも合わさると、「知的障害」とか「精神発達遅滞」とか言われることもあります。
良すぎる場合はほとんど問題とされませんが、他の障害が伴う場合は「サバン症候群」などの診断がつけられることもあります。


このように、少数・多数、有用・無用、という観点で眺めてみると、何を私たちが病気として、それをどういう基準でそう判断しているか、ということが少し浮き彫りになってきます。

偏見と競争

ある側面が少数派に属し、それが社会にとって有用と認められないがために、「病気」と言われる。
そういう例が、私が扱う精神科領域ではたくさんあります。
世論はそれを「我々とは違う人間」という扱いをしがちだし、それに伴って差別が行われることもしばしば。医療現場でさえも、偏見をもって患者さんと接する人が少なくないと思います。

精神科領域に限らず、「病気」は、「避けるべきもの」「治すべき、正常でないもの」と扱われ、患者さんは否応なしに、自身のもつその側面を嫌い、それを持っていることを不運・不幸だと考えなければならない、という空気の中に入り込みます。
もちろん、すぐに治るものであればそれでもいいのですが、そうでないものの場合(例えばガンなど)、それを嫌い、避けようとしてもどうしようもないことが明らかになると、諦め、受け入れなければならない局面に立たされます。

そのときに方向転換をするのは、かなり大変で、できる人とできない人がいます。

中には心を病む人もいます。

こういった不幸や差別の根本にあるのは、「生きる」「生存競争で勝つ」ことを是とし、それ以外を非とする考え方・・もう少し言葉を付け加えると、「健康」と「病気」を”同じ価値をもった多様性の一つ”とは考えない、「勝者」と「敗者」を”同じ価値をもつものの一側面”とは考えない、そういう考え方です。

だから病気は悪だし、その基準は「競争社会における有用性」を軸に持たざるをえないわけです。

病気って何だろう?

病気って?
私たち医師の社会的責任の一つは、こういった全体像を、患者さんやその家族、ひいては社会に提供し、「病気」と言われる人たちを追い詰めない社会づくりに貢献することだと思います。

しかし、病気を「それもひとつの価値だ」とは言いにくいし、無責任にそんなことを言ったら逆効果であることがほとんどでしょう。また、生業としての医業を考えたときに、「それをいっちゃあ商売あがったりだ」という部分もあります。病と闘うこと、病のない幸せな社会づくりに貢献することが医師の役割であり、それで私たちは生計を立てているからです。
医師ならだれでも「治したい」と思うし、「病気は敵だ」と思うものです。そして誰がより効率的かつ効果的な治療ができるか、ということを競いたくなるものです。

しかし、それが行き過ぎるとどうでしょう?
ほんのちょっとの「差」を病気といい、治療を施す。治療の的確さやそれにかかる時間にも、ほんのちょっとの「差」を見つけて、医師の優劣を競う。病は”心身をむしばむもの”としての意味合いから、”医術の競争ツール”になってしまうでしょう。患者さんもそれにつられて、もっと早く、もっと細かく、と刺激的医術を求める。病気があると「負けた」ような気になる。

その積み重ねが、今のように病人に厳しい「社会のムード」をつくっていくのではないでしょうか?

本来病気は、(人生の中で絶対に何度かは)「あって当たり前」のもののはずです。そして人が死ぬ以上は、治らない病気に出遭うことも「あってしかるべき」なはずです。しかし、医術の発達によって、治せる病気が増え、「ないのが当たり前」になって、治らない病気があることを忘れ、いつの間にか死が必ず訪れることすら忘れてしまっている・・ような側面があるような気がします。


私たちの役割

競争社会は敗者に厳しい社会です。競争をやめることは難しい。でも、何も考えずに弱肉強食を推し進めることが是だとは思えないし、その考え方に従って、”競争に弱い部分”を「病気」といい、その側面をもった人を「病人」といって差別するような空気をつくることが医師の仕事だとは到底思えません。

大切なことは、「人生の全体像」「社会の全体像」を個人がそれぞれに持ち、その中で「病」や「死」を”あるもの”として捉えて、普段から考えておくことだと思います。それこそが、「健康な人生」を歩むための習慣じゃないか、と一医師として感じます。病を治すと共に、健康な人生を歩むサポートをする、それも医師の社会的責任なのだろうと思い、今日も病院に行きます。

この記事が、ご覧になっている皆さんにとっても、「病気とは何か」「競争の必要性と弊害」「有用・無用とは何か」ということについて、少し振り返って考え、自分なりの解釈を持つきっかけになったら、医師として嬉しいです。