クオリティの下限

人間味が薄れていく飲食店のサービス

今日は”クオリティの下限”について考えたいと思います。きっかけは先日の食事です。たまたま普段行くお店が休みだったので、近くの居酒屋チェーン店に入りました。飲み物を2杯と食べ物を3品ほど注文して、決して味が美味しくなかったわけではないのですが、気になったのはその”サービス”でした。

ゆび
注文があるときにボタンを押して店員さんを呼ぶシステム、今では日本中至る所にあるそうです。このお店も同様のシステムを導入していました。ボタンを押すと掲示板に番号が表示されて、それに気づいた店員さんが表示準に対応していく、というものです。

一見合理的なこのシステムですが、私はとても違和感を感じました。そのお店、個室というか仕切りのあるスペースが多いわけではありません。見通しのよい店内にテーブルが6個ほど、生け簀を囲んでカウンターが10席ほどあり、数名のホール係が常時待機しています。普通に手をあげて合図すれば気づくような店の構造です。にも関わらずボタンシステムを導入している。

そこでそのホール係の方々は何をしているかというと、ただただボタンの音に反応して注文を聞き、完成した料理・飲み物をテーブルまで運搬する、というものでした。ホールでの顧客の状況には全く興味がない様子で、運搬作業・注文確認時以外は、終始ホール係同士で雑談している、という状況でした。

そんな中、こういう経験をしました。私が箸を落としたので「すいません」と店員さんを呼んだところ、「ボタンを押してください。順番に対応します」とのこと。刺身と油物とを注文していたので、取り皿を変えてほしい、ということをお願いしたときも同様の対応でした。

私はこのとき、何ともいえない違和感を覚えました。「一体何のためのボタンなのか」と感じたのです。本来、ホールあるいは客室係の仕事は、顧客の機微に対応し、顧客が満足のいく時間を過ごすサポートをすることだと、大まかに言えます。そこで例えば伝統ある料亭などでは、客室ごとに客室係が待機し、声や合図などで反応して、その要望に対応します。そんなマンパワーはどこにでもあるわけではなく、一般的な飲食店では、限られた人数での接客をします。そういう中「個室空間」をウリにする飲食店は、平均的予算の範囲内で個室空間と迅速な対応とを何とか両立させるため、ボタンシステムを導入していると聞きます。また、「低価格」をウリにする店は、広い店内スペースを少ない人員で回して、人件費を浮かし、パターン化されたメニューを大量生産大量消費することで低価格を実現しています。こういうお店も、永遠に店員が回ってこない、なんていう事態を避けるためボタンシステムを導入していると聞きます。


それもまた「しょうがない」と言ってしまう

こういうシステムは、本来の「人間らしいサービス」を「価格」や「効率」のために犠牲にしているもの、と言うことができると思います。日本の社会の面白いところ(ユニークなところ)は、諸外国と異なり、これがむしろひとつの「あたり前」になってきていることです。人間味のないサービスが社会に浸透していった背景には、社会のコミュニティが破綻し、コミュニケーションが苦手になる人達が増えていることがあります。そういう中、むしろその「人間的やりとり」を重視しない傾向がかなりの範囲で広がっていると言えます。例えばファミレスなどでは店員さんとは目も合わせず、ボタンで呼んで、メニューをただ読み、注文する。店員は店員でそれを機械的に記録し、機械的に復唱する。アイコンタクトの一切ないやり取りで注文が完了し、一定時間で料理がテーブルに届く。こういう光景はもはや珍しくないものになりました。すなわちこの「機械的やりとり」がひとつの「マジョリティ」となって市民権を得てしまったわけです。

そして前述のようなお店でも、そういうサービスがあたり前になってしまっている。十分目が行き届く店内に、十分な数のホールがいて、値段も安くない。しかしボタンシステムを導入していて、接客はファミレスのアルバイトとほとんど大差ない、という状況です。値段はそのままに、ただ接客の質を落とす。そういうことが、全国的に起こっているように感じます。

この違和感を周囲の友人に話すと、反応は半々で、半分は共感をしてくれますが、もう半分は「そんなもんでしょ」「しょうがない」という反応です。サービスを選ぶ側として、「これ以上は譲れない」という感覚が薄いように感じます。ヨーロッパに行くと、ホールはホールをマネージ(管理・運営)するのが仕事、という感覚が根強いです。だから、アルバイトであれ何であれ、ホールで仕事をする以上はそのホールの責任は自分がもっている、という雰囲気があります。実際日本のこの状況を説明すると、10名中10名が、「それはサービスじゃないね」と答えます。「自分だったら絶対行かない」という人が、私の周りには多いです。

この「クオリティの下限」の問題、実はもっともっと深く社会全体に浸透していて、飲食店でのサービスに留まりません。「バター風マーガリン」「手打ち風そば」「手作り風弁当」「果汁0%のオレンジジュース」など、例をあげればきりがないのですが、例えばフランスと比べると、日本の社会がいかにこの問題に無頓着か、ということがわかります。「価格」「効率」を追求し、「見せかけ」を多様することが社会全体のクオリティ意識を下げることになる、ということを自覚し、きちんと規制する、というスタイルをとっている国として、フランスは有名です。

この話題についてはまた日を改めて共有したいと思います。

拝啓G様〜和敬清寂への誘い〜

時として不愉快な気分になることがある。

久々の実家に帰省しようと九州新幹線に乗り込む。
連休前ということもあって、家族で南へ向かう笑顔あり、金髪の美女が旅行ガイドをみる姿あり、
観光とは関係なくスーツ姿で仕事に向かう者あり。
まぁ、社内はお弁当の匂いが空腹の私を刺激します。

私の席はD席。
ギリギリで乗り込んだので通路側の席にはスーツ姿のご年配がお座りになっております。

年齢は70歳をお過ぎでしょうか。
濃紺のスーツに白髪、眼鏡。
靴は磨かれている。

はい、社会的地位もあられるようなお人なりにござざいます。
これからGと呼びます。
(ジェンドルマンのGとでもw)

私「隣私の席でして、通していただけますか?すみません。」
G「・・・・・」
私「あのーすいません、通していただけますか?」
G「・・・・・(少し腰を引き、動線が3センチ広くなる)」
私「荷物があるので恐れ入ります、少しだけ立っていただけませんか?」
G「・・・・・(目が合う。しかし動かない)」


141010

結局、私の重い荷物は、私の腕力により宙に浮かび、Gの太ももの上、眼鏡の前10センチほどの距離を通過し、
シート前の空間に、ドン!と着地するのでした。

拝啓

暑い夏も過ぎ、秋さんまの美味しい季節がやってまいりました。
Gさま、いかがお過ごしですか?

その節は、
言葉も交わすことなく、一瞬目があったにせよそこに暖かみは感じられず、
私は悲しゅうございましたよ。

いえ、怒ってはおりません。
不愉快にはなりましたけど。

そう、あなたさまの身なりからは想像できないお振る舞いに、素直がっかりしてしまったのでございます。

私もできた人間ではまだまだございません。
しかし、人と人の関係性で成り立つこの世の中、気持ちよく過ごしたいものでございます。

そして年配の者は、後輩の者に対して行動規範となるべきにございませんでしょうか。

Gさま、お疲れだったのでしょうか。
でもですね、今日の態度は落第点とさせていただきます。

1つよい言葉をお送りさせていただきます。

和敬清寂。お調べください。

追伸:
足、そんなに広げたらワゴンサービスのスタッフが通路を通れませんよ。
ちょっとの思いやりに気付けるかどうかで人生の価値はかわると思いますよ。

敬具


こうしてまた、人のあるべき姿を考えてしまったわけです。

では、御機嫌よう。

img_0

山之口貘

山之口貘

高田渡に引き続き、今度は詩人の紹介をしたいと思います。山之口貘という沖縄出身の詩人です。ずいぶん昔の人なんですが、高田渡の歌にはこの人の詩を歌ったものが少なくありません。

芸術は素晴らしい、としみじみ思うのは、先日引用した草枕で夏目漱石がいっていたように、世のしがらみをひと時離れて、本質と向き合うことができるからだなあと感じます。


座蒲団   

土の上には床がある
床の上には畳がある
畳の上にあるのが座蒲団でその上にあるのが楽という
楽の上にはなんにもないのであろうか
どうぞおしきなさいとすすめられて
楽に座ったさびしさよ
土の世界をはるかに見下ろしているように
住み馴れぬ世界がさびしいよ

〜詩集『思辨の苑』1938(昭和13)年より〜


生活に困っていた時期の多い彼は、その様子を隠すことなく、身の丈でたくさんの詩を書いています。芸術で暮らすのは簡単ではなく、時代のせいもあって、浮浪者として16年間暮らしていたそうです。しかしその間片時も詩を書くことはやめなかったと言います。そんな彼が、座布団の上に座るとき、こういうことを考える。私たちの生活にも似たようなことが言えるのではないか、そう感じます。


借金を背負って(1951年)

借りた金はすでに
じゅうまんえんを越えて来た
これらの金をぼくに
貸してくれた人々は色々で
なかには期限つきの条件のもあり
いつでもいいよと言ったのもあり
あずかりものを貸してあげるのだから
なるべく早く返してもらいたいと言ったのや
返すなんてそんなことなど
お気にされては困ると言うのもあったのだ
いずれにしても
背負って歩いていると
重たくなるのが借金なのだ
その日ばくは背負った借金のことを
じゅうまんだろうがなんじゅうまんだろうが
一挙に返済したくなったような
さっぱりしたい衝動にかられたのだ
ところが例によって
その日にまた一文もないので
借金を背負ったまま
借りに出かけたのだ


読んだらそのまま情景が分かる。すごく深刻で大変な状況なのが見て取れるんだけれども、詩を読むと、彼の精神は荒んでいない。貧乏でも金持ちでも、借金があってもなくても、土の上でも座布団の上でも、山之口貘はそのまんま山之口貘なんだと、彼の人間を感じます。

そのまんまは難しい

「そのまんまでいいよ」という本を中学生のころに読んだことがあります。ブッタとシッタカブッタという4コママンガのシリーズです。
img_0

このマンガはとっても面白くて、何度読み返してもためになる。今も私の実家の本棚には3部シリーズが全部置いてあります。ブッダを模したブタこと「ブッタ」が、悩めるブタ「シッタカブッタ」と一緒に人生の悩み事を色々考える本です。

色々な名言が飛び交います。

自分の価値を押し付けるブタ

「勉強しなさい! いっぱい勉強していい学校へ入って いい会社にはいるのよ!」
「それからどうするの?」
「また、がんばって、エラくなるのよ」
「エラくなったら、どうなるの?」
「お金もちになったりして、シアワセになるのよ」
「シアワセって、そんなに先にいかなきゃないの?」



本当のボクという言いわけ

「本当のボクをみんなわかってくれない・・・」
「本当のあんたってどこにいるの?」



不幸を消す

幸福と不幸を2つに分けることをやめると 
不幸は消える 
ただ幸福も消えるけどね



振り返ると、色んな人が色んな言葉で、ありのままの大切さ、価値に多様性を持たせることの大切さを語ってきた(今この瞬間もたくさんの言葉が発されている)と感じます。あらそいごとの根っこには、「受け入れないこと」があります。どう頑張ったって受け入れ難いものもありますが、よく考えるとそれはごくごくわずかな気がします。自分のしてきた「あらそいごと」を振り返ると、何とまあ心の狭いこと、と思うことも少なくありません。もちろん文化ってのは、受け入れられるものとそうでないものを複雑に紡いできた歴史でもありますから、多様であればいいってわけでもないのですが・・

今日は最後に老子の二章を引用して終わります。

天下皆知美之爲美。斯惡已。
皆知善之爲善。斯不善已。
故有無相生、難易相成、長短相形、
高下相傾、音聲相和、前後相隨。
是以聖人、處無爲之事、行不言之教。
萬物作焉而不辭、生而不有、
爲而不恃、功成而弗居。
夫唯弗居、是以不去。

天下みな美の美たるを知るも、これ悪のみ。
みな善の善たるを知るも、これ不善のみ。
故(まこと)に有と無と相生じ、難と易と相成り、
長と短と相形(あらわ)れ、高と下と相傾き、
音と声と相和し、前と後相随(したが)う。
ここを以て聖人は、無為の事に処(お)り、
不言(ふげん)の教えを行なう。
万物ここに作(おこ)るも而(しか)も辞(ことば)せず、
生じるも而も有とせず、為すも而も恃(たの)まず、
功成るも而も居らず。
夫れ唯だ居らず、ここを以って去らず。

40にして思ふ。人のあるべき姿とは?

人生は長いもの。
そう感じ始めたのは40歳を越えてからでしょうか。

family

生き方と生き様が人年輪になる


この年齢になると不思議と若い頃感じていたような、他人との年齢差は気にならなくなります。
むしろ、他人の生き方、そうですね“年輪”とでも言いましょうか、そっちの方を意識します。

街中を歩けば、当然いろんな年代の方とすれ違います。
綺麗な身なりで大口のサングラスをかけ、颯爽と歩く綺麗な女性。
短髪で見た目いかつそうだけれども、お年寄りに優しい笑顔で対応する男性。
腰は曲がってしまって自動販売機の釣り銭を漁る老女。

人生には生き方があり、その生き様が年輪として実年齢を無にして社会と同調します。

そういう目線でせっかく与えられたこの時間を見つめ直すと、
やはり「人のあるべき姿ってなんだ?」とか考える瞬間があるわけです。

孔子にみる人生観


孔子亡き後、その弟子達が生前交わした言葉をまとめた論語。
全20編からなるその為政第二にこんな言葉があります。

子曰く、
吾れ十有五にして学に志ざす。
三十にして立つ。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳従う。
七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず。


聞いたことありますよね。

ちょっと訳すとこうなります。

孔子は言います。私は、
十五の時に学問で身を立てようと決心しました。
三十の時に、学問などの基礎がきちっとして、独り立ちができるようになりました。
四十の時に、狭い見方に捕らわれることなく、心の迷いがなくなりました。
五十の時に、天が自分自身に与えた使命を自覚しました。
六十の時に、何を聞いても素直に受け入れることができるようになりました。
私は、七十の時に、自分がしたいと思う言動をしても、人の道を踏み外すことがなくなりました。

人生の第3クォーターに入って〜和敬清寂〜


私は人生を80年で捉え、20歳区切りで考えるようにしています。
ということは今は第3クォーターに入ったところです。

孔子に会えるものなら言葉を交わして振り返りと先の生き方を熟考したいものですが、そうはいきません。

であれば、自ら設計するのみです。

好きな言葉があります。「和敬清寂」
乱暴に要約すると、
・和を尊び
・人を敬い
・自らを清め
・寂然不動に構える


そんなことを考える珈琲ブレイクの時間でした。

※和敬清寂について詳しく知りたい方はこちらから(©おてらいふ)

せっかくもらった人としての人生。せっかくなら太く生きてみよう!
では、ごきげんよう!

ひとやすみ

タカダワタル

今日は私の好きなミュージシャンの紹介をしたいと思います。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%94%B0%E6%B8%A1

高田渡

この人を知ったのは、友人のブログを見て、YouTubeで見たのがきっかけです。インターネットのいいところは、”誰かが残せば残る”というところです。生産→流通→販売、という手続を、店舗を介さなければできなかったころは、”消えてなくなる”ものが、たくさんあったと思います。じゃあ今は”どんなものでもいつまでも”残るか、というとそういうわけではないのですが、流通にのっからなくても、広い範囲で有名にならなくても、”確かな価値(少なくとも一人以上の人が一定の期間以上、一定の熱意以上でその価値を支持する)”があれば、共有することが可能である、という時代にはなったと思います。

「放送禁止歌」の特集を友人がブログで共有していて、その中に、表記のミュージシャン高田渡の「自衛隊に入ろう」という曲が入っていました。自衛隊ができたころにつくられたこの歌、当時の社会情勢を思い起こして、「なんてオシャレな歌だ!」と思いました。

https://www.youtube.com/watch?v=YvAoC0uYXCk

それから色んな曲を、今レコードは手に入らないので、YouTubeや古いCDを通して聞くようになり、すっかりファンになってしまったのですが・・

このロメウスイッチでも、「考えるヒント」をくれるステキなミュージシャンだと思ったので、今日このように紹介しています。


例えば消費税増税。民主党政権のころ、管直人首相が10%に増税の話をしたときは、すごい剣幕でバッシングしていた世論が、現政権で8%に増税の際は驚くほど静かだったことは、記憶に新しいです。そのとき聞いた歌が、高田渡の「値上げ」です。

https://www.youtube.com/watch?v=U5lx64va3vo

矛盾の中で生きる

日本人として日本で暮らしていると、人権・個人・市民社会という西洋から輸入した概念と、江戸時代までに定着した身分の概念やモラルや価値を自身の内部ではなく集団に見出す考え方、などがせめぎ合い、多かれ少なかれ矛盾を感じながら生きる、というのは多くの人が経験していることだと思います。

例えば人間はみな平等、と社会や道徳で習いますが、国語では「立場の上下を意識することの大切さ」を敬語の授業で習います。基本的人権やひとりひとりの尊厳の大切さも授業で習いますが、テレビでは毎日のように、人格を否定し、尊厳を傷つけるような表現が目に入ってきます。倫理の授業では”共存の大切さ”も教わりますが、学校全体は”受験戦争”の真っただ中ですし、メディアは勝ち組負け組の差をこれでもかと見せつけるし、家庭でも競争で勝つことを強要する教育をすることが少なくありません。

習ってるそばから矛盾だらけな教育環境で私たちは育つわけです。先生たちもそれは知ってるはずなのですが、教科として教えることに終始して、なかなかそれ以上のことを教えるほど時間も手間もかけられない、というのが大勢のようです。かといって家庭やメディアでそれを修正してくれるわけでもない。どこの国にもどんな社会にも矛盾はありますが、少なくとも「葛藤の仕方」を教えてくれる環境が大切だと、個人的には思います。しかし多くの場合、「そういうもんだ」「仕方がない」という言葉しか返ってこない。。社会に出ても同じような、いやむしろもっとキレイゴトじゃない状況が続く。。

こんなときに聞くのが、「あきらめ節」です。

http://www.youtube.com/watch?v=3lgxJnBbxMc

世間を見渡すと、この西洋の概念を信じて推し進める人たちを概して左、日本・東洋の概念、その中でもとりわけ集団の概念を大切にして組織的に活動する人たちを概して右、という風に呼び、せめぎあっています。まだまだ社会がどういう形になるのか、答えは出ていないですね。ひとつの変化が社会に大きく影響し、たくさんの人が右往左往します。何が正しいか、なんてことはとても流動的で、社会全体が自己矛盾を抱えています。その狭間でたくさんの人が悩んでいることを、仕事や放送、NGOを通して目の当たりにします。「考える」という行為はとても孤独です。だからこそ相談するし、議論する。だからこそ芸術を愛するんだと、強く思います。


最後に夏目漱石の「草枕」を引用して終わります。

山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。
智ちに働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟さとった時、詩が生れて、画(え)が出来る。
人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容(くつろ)げて、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降くだる。あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊たっとい。


スクリーンショット 2014-10-02 10.18.44

言語と思考

ハマド国際空港

ドーハから投稿です。ハマド国際空港は、カタールの新しい玄関で、とても機能的な空港です。カタールは、アジア、ヨーロッパ、アフリカの中継地点として、ドーハの空港に昼夜を問わずたくさんの旅客が出入りします。そのドーハに新拠点「ハマド国際空港」ができ、今回のギリシャへの旅でも使わせてもらいました。トランジット(乗り換え)の人がほとんどなので、空港のつくりはシンプルです。中心に色んなレストランやお店が集まるスクエアがあって、そこから放射状に各ターミナルへの道がつながる。手荷物検査の内外にお店があり、外がショッピングモールのようになっていて、中は売店がメイン、という日本の空港とは趣を異にするつくりです。

スクリーンショット 2014-10-02 10.17.00巨大な電光掲示板とテディ?ベア。手前には車が”DUTY FREE”で展示されています。

石油で潤うカタールらしい、贅沢なお店も見かけました。ロンドンを拠点に世界に支店を持つキャビア専門店、「Cavia House Purnier」です。「砂漠なのにシーフードかよ!」と言いたくなるくらい、伊勢エビ(ロブスター)、牡蠣、サーモン料理、そしてキャビアがずらりと置いてありました。お値段も通常の食事とは一桁違う出費を要するものばかりでした。フライトまで時間がなかったこともあり、メニューだけ見て素通りしようかと思いましたが、手頃に食べれるメニューもあって誘惑に負け、キャビアスプーン1杯(5g,約1500円)を注文し、キンキンに冷えたウォッカと一緒に食べました。新鮮な刺身と日本酒のような”絶妙な組み合わせ”だと感じました。もし旅行帰りに外貨が少し余っていたら、一度立ち寄られてはいかがでしょうか?間違いなくハマドで一番ステキなレストランの一つだと思います。

スクリーンショット 2014-10-02 10.41.02

言語と思考

さて、本題に入ります。今回参加したRhodes Youth Forumでは、とにかくたくさんの議論をしました。世界が直面する諸問題について、それこそ世界中から集まった人達が知恵を出し合って解決策を考えたり、それをもとにプロジェクトを立ち上げたりする、とてもアクティブな場でした。プロジェクトを申請しないといけない、という縛りがあるので、日本からの参加者は今回私ひとりだけでしたが、周囲の友人知人にも伝え、来年はこの”あたり前”をひとりでも多くの仲間と共有できればと思っています。

その中で一つ強く感じたのは、「使っている言語は違えど考えていることは一緒だ」ということです。私たちは日本語で思考し、日本語で話をします。外国人も一緒で、母国語で思考し、母国語で話をします。あたり前のことですが、外国にいくと忘れがちなことの一つでもあります。外国人と英語でコミュニケーションをとるとき、言いたいことが英語で言えなかったり、きちんと伝えられなかったりすると、「自分は相手より劣っている」とか「相手の方がものを知っていてよく考えている」ように感じてしまうことが多いのではないでしょうか?

でも、よく耳を傾けてみると…自分も考えたことがあるようなこと、普通にロジカルに考えれば出てくること、をハキハキと語っている、ということが多いです。むしろ東洋文化がベースにある私たちは、思考のバリエーションという意味で、ロジックと正義を基軸とする西洋の人達にはない視点を持っていることも少なからずあり、議論の幅を広げたり、解決策の種類を増やしたり、という部分に大きく貢献出来ると感じています。

表題の写真は私の参加したグループディスカッションの様子です。たまたまロシア・旧ソ連の人が多く、英語と一緒にロシア語が飛び交っていました。ロシア語はほとんどわかりませんが、間に入る英語や、司会の通訳で大体の内容を理解しながら議論しました。自己主張が強い人が多く、議論はときに本題からそれて盛り上がりを見せることも多かったです。そういうとき、私たちの感覚は、「ちゃんとお題に答える話し合いをしよう」と考えるものです。実際にそれを言うと、みんながハッと我に返る、ということもしばしば見かけました。

思考の大切さ

よく一緒に国際交流やプロジェクトをやる仲間と、「英語より日本語が大切」という話をします。母国語が日本語である以上、日本語による思考で到達した内容以上のことを、英語で表現できることはほとんどないからです。もっとかみ砕いた言葉で言うと、「日本語で大したことを言えない人は、英語でも大したことは言えない」。何語で話すにしろ、それなりのことを考えて行動していないと、どこに行ったって相手にされないものです。

最近は語学留学で半年や一年、アメリカやカナダに行く人も増えています。そこで英語がスムーズに話せるようになって帰ってくる。でも、言っていることの質が飛躍的に上がった、という人は見たことがありません。むしろ日常会話にやたらと横文字を混ぜるようになったり、何かとと英語を使ってみせたり、という何とも決まりの悪い癖を身につけてしまう、ということが目立つように思います。もちろん、2つの言語を使えることによって思考の幅が広がる、ということはあります。しかし、何にせよ「きちんと考える」「考えに基づいて行動する」ということをしていないと、何語でしゃべろうが中途半端で、「聞くに値しない」と評価される結果に陥ってしまうかもしれません。

逆に「話したい内容」を持っている人は、ゆっくりであれ、少々の不自然さはあれ、話を聞いてもらえるものです。そして、そのときに感じた「違和感」「不全感」は、その後の言語学習に対する大きなモチベーションとなります。私は語学留学をしたことはありませんが、国際的なプロジェクトに参加したり、外国人を自分のプロジェクトに巻き込んだり、ということを通して、今は不自由なくコミュニケーションを取ることができます。でもその根本は、「外国人に話したいこと」「外国でやりたいこと」がある、ということです。それがないと、易きに流れて続かないもんです。私たち日本人は幸い、日本で暮らす上で外国語を必要としません。ですから、日常生活の中にその必要性をつくる、ということはとても難しいんですね。だからこそ、「世界」を視野に何かを考えている人は、意識してその「何か」をもち、それを実行するために努力する、という習慣をもつことをおすすめします。

今回のギリシャ訪問で、一層言語習得に対するモチベーションが上がりました。言語習得の必要性については、日を改めてまた共有したいと思います。

これからの時代を生き残るWeb戦略。コンテンツマーケティングの魅力(2)

前回は「消費者目線でつくるコンテンツの意味」を説きました。

今回は、

「良いコンテンツって何??」ですw


web140930

8月29日の記事。
Googleアルゴリズムの基本を知れば、コンテンツ作成の肝が見えてくる!

その一節で、コンテンツ重視・ユーザ視点でアルゴリズムを構築するGoogleの姿勢について書きました。
そう、コンテンツマーケティングと肝となる部分は同じですね。

要するに、
・Googleは良いコンテンツを好む
・良いコンテンツとは、ユーザのためになるもの
・だから、より良いコンテンツはより多くの人に広まるように評価があがる
・逆に、スパムコンテンツは排除される
 (前回のパンダ、ペンギンのくだりを参照ください)
ってことです。

だから今、コンテンツマーケティングの重要性と価値が認知されてきているわけです。

しかし、良いコンテンツって何なのでしょう。


今時に平たく言うと「いいね!」って共感されるものでしょうか。

本でも映画でもドラマでも音楽でも、共感したものって人に教えたくなりませんか?
同じ内容なのに伝え方が上手い書き手とそう出ない書き手がいたら前者を紹介しますよね。

ターゲットを意識して、
伝えたいそのターゲットを明確にイメージして、
その人たちが読んで、見て、
共感できて、
いろんな人に教えたくなる。

共感からファンへ、そして伝播からの拡散。
これがコンテンツマーケティングの成功方程式です。


とはいっても簡単なことではないですよね。
そうなんです。

良いコンテンツを資産として蓄積していくってことは、それなりの中長期的戦略PDCAをまわした検証・改善を繰り返す必要があります。
そうすることで時間を経て蓄積されたコンテンツの資産価値はより高くなります。

最初に戻ります。
その蓄積で、Googleの好むユーザ視点の“良い”コンテンツが出来上がるわけです。

即効性はありませんが、なんだかワクワクしてきませんか?

コンテンツマーケティングについて更に詳しく知りたい方はお気軽にお問い合わせください。
課題の抽出から、ストーリー設計、コンテンツマーケティング施策をサポートさせていただきます。

一緒にコンテンツの資産を積み上げていきたいですね。

7880009_300x300

ギリシャ Rhodes Youth Forum

国際アイディアコンテスト

ギリシャから投稿です。表記のRhodes Youth Forumは、5年前にヨーロッパで始まった企画で、世界中の若者がアイディアを競うコンテストです。毎年9月下旬〜10月上旬にギリシャのロードス島で開催されます。参加者はまず申請書類(履歴書・企画書など)を記載し、自身の企画についてのプレゼンテーションをビデオに撮ったものを添えて申請します。選考に通れば、旅費の一部に援助を受ける形で、ロードス島での選考会に参加することができます。選考に通らなかった場合も、見学者としての参加を受け付けています。選考は3〜4つのテーマ(毎年そのときの世界情勢によって変わります)にわかれており、各テーマ10〜20名、計50名程度がアイディアを競います。優勝者にはそのアイディアを形にするための賞金が出ます(最高150万円程度)。

今年のテーマは
Modern Learning Environment (教育・学習環境)
Youth Diplomacy and International Relations (外交における若者の役割と国際関係)
Social Enterpreneurship(社会的起業)


の3つで、見学者も含め、45ヶ国から100名程度の若者(20代〜30代)が参加しています。

私は去年のフォーラムで自身の国際企画を発表し、今年はその継続をテーマに講演を、ということで、ロードス島に来ています。とても綺麗な場所で、歴史もあって(7世紀ころのギリシャ文化)、ヨーロッパ中から観光客の来るリゾート地です。もし機会があれば、一度立ち寄られていはいかがでしょうか?

IMG_0130

国際交流としての意味

3つのテーマ全ての発表を拝見しましたが、参加者は皆、自身のアイディアを形にしようと熱気がこもっています。中には緊張して声がうわずったり、英語が母国語でないために質問の意味がわからず答えられない、というハプニングも認めますが、同年代の若者が、文字通り「切磋琢磨」する、エキサイティングな場です。

アイディアはそれこそ玉石混淆で、「中高生の自由課題かな」というものから、「国全体・世界全体を次のステージに進める」という意志や可能性を感じさせるものまで様々です。

こういったコンテストのいいところの一つは、参加者どうしが、”お互い頑張って競い合った仲間”という意識を持っているので、国をこえ、民族をこえて、深い交流ができるところだと思います。私も昨晩はセルビアからの参加者と、それぞれの国の問題やその共通点、市民社会とプロパガンダ、自身の生きる意味など(書いていて少し恥ずかしいですが)について、夜も遅くまで語り合っていました。互いの歩んできた人生に深く共感する部分があると、1時間も話せば旧知の仲のように打ち解けられる、ということを強く感じる貴重な機会でした。

スクリーンショット 2014-09-27 14.18.36

それとは別にRYF(Rhodes Youth Forum)のいいところは、音楽やダンスを大切にするところです。数名の参加者はプロのアーティストで、発表もしますが、初日のウェルカムパーティーでは演奏もしてくれます。ほとんどの参加者は初対面なので、初めは知らない顔ばかりなのですが、演奏を聞き、お酒を飲み、一緒に踊っている中でいつの間にか友達になっているんですね。そのとき仲良くなった人達とは、コンテストの間一緒に過ごすことが多くなるもんで、いわゆる“いい友達”が自然とできている。教授も社長も政治家も、医者も弁護士も芸能人も、学生でも無職でも、つまり自身が何者でも、“何かをもって”そこに参加していれば、対等に尊敬し合う仲間だし、歌ったり踊ったりする中では肩書きは関係なく、人間と人間の付き合いができるところも魅力のひとつです。

1376341_590457391001208_1466205695_n

刺激的な講演

コンテストは3日間にわたって行われますが、競技自体は最初の1日で、2日目3日目はワークショップや講演がメインです。国際交流や起業、イノベーション、などをテーマにコンテストをするわけですから、講演するゲストもいわゆる「成功者」の人達で、世界展開するビジネスを手がけている人、著名な作家、高名な学者がほとんどです。そういう人達が3日間の間で何度もパネルディスカッションを行い、コンテストの進行に伴って、「これでもか」というくらい、たくさんのアドバイスを若者に伝えます。会場からもどんどん質問が出て、質問から議論が生まれ、いくら話しても話足りない、という雰囲気の中でひとつのセッションが終わり、休憩をはさんで次のセッションへ、と・・刺激的で充実した時間を過ごすことができます。

今回とても印象に残ったゲストは
Peter Löscher(オーストリア人)という方で、世界的製薬会社の社長です(wikipedia参照)。
ひとつひとつの言葉に重みがあり、またとても気さくな方で、会議のときはもちろん、食事やパーティーのときも、自然体で話ができるジェントルマンでした。

スクリーンショット 2014-09-27 14.17.57

フォーラムの様子は近いうちに動画で編集してYouTubeで紹介します。
今日は彼の言葉で、すごく感動したものを紹介して終わろうと思います。

Never ever compromise your personal integrity
自分自身(の理念、誠実さ)に妥協しないこと。

You are respected when you respect others.
You are trusted when you trust others.

人を敬うから自分も大切にされる。人を信じるから自分も信用される。

Be competent and confident
努力をしなさい(有能であれ)。そして誇りを持ちなさい。

これからの時代を生き残るWeb戦略。コンテンツマーケティングの魅力(1)

140926

今年に入りにわかに広がりだした「コンテンツマーケティング」
一般検索でのヒット数は、およそ1,400万件にのぼり、マーケティング手法として熱い視線が注がれています。

その背景にはなにがあるのでしょう。
ひとつには、時代の変遷に応じた“企業と消費者の関係性の変化”があるようにみえます。

ちょっと考えてみてください。

『あなたは、あるいは、あなたの会社は消費者と誠実に向き合えていますか?』

金曜の夕方5時。あと1週間がんばればプチ大型連休が待っています。
ここしばらくのハードワークでちょっと息抜きがしたいなと思ったあなた。
大事な人とちょっと足を伸ばして旅行にでも。

あなたが次に起こすアクションをイメージしてください。

一昔前までは旅行代理店のカウンターでパンフレットとにらめっこ。
HISの登場で、カウンターでの相談も気軽になりましたね。
格安航空会社の登場で、航空券や代金の比較・購入も手軽になりました。
さらに、WEBサイトの充実で料金比較もなんてことなくできてしまいます。

そう、今のご時世、Webサイトを媒体として当たり前のように情報を入手、決断できます。

でも、旅行先でなにをして満喫しますか?

Web上には様々な情報が眠っています。
旅行先に決めた温泉界隈のレジャー施設、写真、動画、ブログ。
あるいはTwitter、Facebookなどのソーシャルメディア。
自分のイメージする魅力的な旅先のネタが充実しているコンテンツに、あなたは次第に引き寄せられているかもしれません。

そして最終的に、満足したイメージを持って、折角の休日の旅先を決定する、という決断フローが今の時代にはあります。

もうお分かりですよね。

消費者はWebの世界をあらゆる角度から回遊して、自分のイメージにマッチするところから情報を入手しています。
ソーシャルメディアやおまとめサイト、ニュースアプリの台頭がそうさせた一端にはありますよね。

いまや、情報の主役は「消費者」にある、ということが認識できるはずです。

ここで再度問いかけてみましょう。
『あなたは、あるいは、あなたの会社は消費者と誠実に向き合えていますか?』

プッシュ型の企業サイトとは訴求軸を変え、

・あなたにとって、消費者が興味・関心がある情報はなんなのか?
・消費者が読みたくなるコンテンツはどういったものなのか?動画?記事?写真?
・消費者がファンになってくれるコンテンツを継続的に配信できるか?


コンテンツマーケティングの肝。
それは、「コンテンツをつくる」+「消費者目線で届ける」ところにあります。

魅力あるコンテンツは消費者満足を生み出します。
そして、強いてはあなたの発信し続ける情報のファンとなり、結果、売上として反映されます。

今日はここまで。
次回は、
・コンテンツマーケティングの魅力と効果
についてお話させていただきます。

では良い週末を。

国際人

国際人ってなんだろう?

国際人を尊ぶ傾向

先日母校の長崎大学で開かれた、「グローバル人材育成プログラム」のプレゼンテーション大会で、講演をさせてもらいました。テーマは、「国際人を目指す人達へのメッセージ」という、何とも大それたテーマで話をさせてもらいました。

講演の様子はYouTubeで見ることができます(後半6分くらい)。

http://youtu.be/kqftN9_IHFQ

昨今政府の支援もあって、全国的に「世界に打って出る人材」「世界を舞台に活躍できる人材」を育てるプログラムが盛んです。それをグローバル人材といって、「グローバル」「国際」という言葉もよく耳にするようになりました。技術が革新し、世界が昔より近くなった今、そのような考え方や試みが出てくることは自然で、様々なレベルで議論がされています。

毎度のパターンで恐縮ですが、果たして私たちの「ものの見方」はそれに伴って進歩しているのでしょうか?

グローバル、国際、NGO, NPO

グローバル人材、グローバル企業、グローバルビジネス
国際人、国際NGO(手前味噌ですが)、国際会議

色々な場面でこの国際・グローバルという言葉が使われます。また、国際的な活動をする人、広く社会に貢献する人たちはNPOやNGOで活動していることが少なくありません。そして何だかブランドめいた、ちょっとした憧れをもって語られることも多いです。でもそれって、そんなに「特別」なことなんでしょうか?


例えば町内会のゴミ拾い活動があります。それを何と呼びますか?「町内会の活動」です。しかし、それを全国で”活動”として展開すれば“NGO”と言ったり、その公益性を強調すれば“NPO”と言ったりします。やってることは同じゴミ拾いです。活動範囲や重視するものはどうあれ、それは”自分たちが住む地域”のためにやっている大切な活動だと思います。でも、昨今の流れを見ると、どこか広く展開したり公益性を重視したりすること、NGOと呼んだりNPOと呼んだりすることに何らかの「価値」を見出だし、自然なスタンスで地味にやることを「かっこ悪い」とか「損してる」とかいう風に低く評価する傾向があるように思えます。

例えば実家の隣にある八百屋さんのやってる仕事をなんと言いますか?「八百屋」です。でもその八百屋さんの店舗が拡大して、県内にチェーン店舗を展開すると、「中小企業」と呼ばれます。お隣の国に支店を出すと、「国際的にビジネスを展開する会社」と呼ばれ、いくつかの大陸に支店を出して、流通まで手がけると、「グローバルビジネス」と呼ばれる。やってることは同じ「野菜を売る商売」です。それを必要とする人達のための大切な生産活動です。でも、商売の範囲や複雑さが異なると、呼び方が変わり、その価値まで異なるかのように思われる。

そんな傾向が私たちにはあるような気がします。
一言でいうと、「言葉の中身を深く考えない癖」です。
それが色々な部分で弊害を生んでいるのではないか、というのが僕の意見です。

グローバル、国際という言葉だって、語源から考えれば全然違う言葉だけれど、同じような意味で使うことがほとんどで、あまりその中身について論じません。国家の存在を前提とし、国と国のキワ(間がら)を考えるのが国際であるのに対し、グローバル(globe:地球)は、国境を意識しません。でも、世界から国家がなくなったわけでも、一つの国が統一国家をつくったわけでもありません。世界は国と国との競争であり、その上に個々の競争がのっかっている、というのが実情です。


言葉の中身を考える習慣

既存の競争概念にのっとり、その中での優劣を競う、という感覚で国際人を語るなら、それはただ、収入が高いとか、外国語が話せてかっこいいとか、そういうことなんだと思います。あるいは日本の強さや素晴らしさを世界に示す、というナショナリスティックな意味を付加することもあります。

それが悪いというわけではないのですが、冒頭に述べたように、これだけ世界が近くなって、グローバルだとか国際だとかいうことを大切にしていくというなら、もう一歩踏み込んで考えてみてもいいのかな、と思います。例えば、「”国内ではできない何か”をやるために外国で頑張る人」とか、「技術的に近くなった世界を、本質的に次のステージに進めるために貢献する人」とか、”国際”という言葉の中に、何か夢や未来を感じるような思考があると、その言葉は活き活きとした”意味”を持ち、健全なモチベーションや評価につながると思います。

他の言葉も一緒で、言葉の意味を、既存の競争概念の中での価値だけで考えず、夢や未来を付加して考えることは、毎日の生活を活気づけるきっかけにもなります。子供のころ私たちはみんなそうだったのでは?大人になると色々と考えなきゃいけないことが増え、きれいごとじゃない部分がたくさんあることを知り、どうもそういう思考が苦手になってしまう傾向があるように思えます。もちろん何でもかんでも「元気があれば何でもできる」と言えばいい、というわけではないのですが、私たちが言葉を使って思考する人間である以上、言葉の使い方、言葉の捉え方を見つめてみる、というのはとても大切なことのように思えます。

今からギリシャです。「ソーシャルメディアと社会」というテーマで講演してきます。
その様子も追って紹介できればと思います。