タグ別アーカイブ: 思考

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言語と思考

ハマド国際空港

ドーハから投稿です。ハマド国際空港は、カタールの新しい玄関で、とても機能的な空港です。カタールは、アジア、ヨーロッパ、アフリカの中継地点として、ドーハの空港に昼夜を問わずたくさんの旅客が出入りします。そのドーハに新拠点「ハマド国際空港」ができ、今回のギリシャへの旅でも使わせてもらいました。トランジット(乗り換え)の人がほとんどなので、空港のつくりはシンプルです。中心に色んなレストランやお店が集まるスクエアがあって、そこから放射状に各ターミナルへの道がつながる。手荷物検査の内外にお店があり、外がショッピングモールのようになっていて、中は売店がメイン、という日本の空港とは趣を異にするつくりです。

スクリーンショット 2014-10-02 10.17.00巨大な電光掲示板とテディ?ベア。手前には車が”DUTY FREE”で展示されています。

石油で潤うカタールらしい、贅沢なお店も見かけました。ロンドンを拠点に世界に支店を持つキャビア専門店、「Cavia House Purnier」です。「砂漠なのにシーフードかよ!」と言いたくなるくらい、伊勢エビ(ロブスター)、牡蠣、サーモン料理、そしてキャビアがずらりと置いてありました。お値段も通常の食事とは一桁違う出費を要するものばかりでした。フライトまで時間がなかったこともあり、メニューだけ見て素通りしようかと思いましたが、手頃に食べれるメニューもあって誘惑に負け、キャビアスプーン1杯(5g,約1500円)を注文し、キンキンに冷えたウォッカと一緒に食べました。新鮮な刺身と日本酒のような”絶妙な組み合わせ”だと感じました。もし旅行帰りに外貨が少し余っていたら、一度立ち寄られてはいかがでしょうか?間違いなくハマドで一番ステキなレストランの一つだと思います。

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言語と思考

さて、本題に入ります。今回参加したRhodes Youth Forumでは、とにかくたくさんの議論をしました。世界が直面する諸問題について、それこそ世界中から集まった人達が知恵を出し合って解決策を考えたり、それをもとにプロジェクトを立ち上げたりする、とてもアクティブな場でした。プロジェクトを申請しないといけない、という縛りがあるので、日本からの参加者は今回私ひとりだけでしたが、周囲の友人知人にも伝え、来年はこの”あたり前”をひとりでも多くの仲間と共有できればと思っています。

その中で一つ強く感じたのは、「使っている言語は違えど考えていることは一緒だ」ということです。私たちは日本語で思考し、日本語で話をします。外国人も一緒で、母国語で思考し、母国語で話をします。あたり前のことですが、外国にいくと忘れがちなことの一つでもあります。外国人と英語でコミュニケーションをとるとき、言いたいことが英語で言えなかったり、きちんと伝えられなかったりすると、「自分は相手より劣っている」とか「相手の方がものを知っていてよく考えている」ように感じてしまうことが多いのではないでしょうか?

でも、よく耳を傾けてみると…自分も考えたことがあるようなこと、普通にロジカルに考えれば出てくること、をハキハキと語っている、ということが多いです。むしろ東洋文化がベースにある私たちは、思考のバリエーションという意味で、ロジックと正義を基軸とする西洋の人達にはない視点を持っていることも少なからずあり、議論の幅を広げたり、解決策の種類を増やしたり、という部分に大きく貢献出来ると感じています。

表題の写真は私の参加したグループディスカッションの様子です。たまたまロシア・旧ソ連の人が多く、英語と一緒にロシア語が飛び交っていました。ロシア語はほとんどわかりませんが、間に入る英語や、司会の通訳で大体の内容を理解しながら議論しました。自己主張が強い人が多く、議論はときに本題からそれて盛り上がりを見せることも多かったです。そういうとき、私たちの感覚は、「ちゃんとお題に答える話し合いをしよう」と考えるものです。実際にそれを言うと、みんながハッと我に返る、ということもしばしば見かけました。

思考の大切さ

よく一緒に国際交流やプロジェクトをやる仲間と、「英語より日本語が大切」という話をします。母国語が日本語である以上、日本語による思考で到達した内容以上のことを、英語で表現できることはほとんどないからです。もっとかみ砕いた言葉で言うと、「日本語で大したことを言えない人は、英語でも大したことは言えない」。何語で話すにしろ、それなりのことを考えて行動していないと、どこに行ったって相手にされないものです。

最近は語学留学で半年や一年、アメリカやカナダに行く人も増えています。そこで英語がスムーズに話せるようになって帰ってくる。でも、言っていることの質が飛躍的に上がった、という人は見たことがありません。むしろ日常会話にやたらと横文字を混ぜるようになったり、何かとと英語を使ってみせたり、という何とも決まりの悪い癖を身につけてしまう、ということが目立つように思います。もちろん、2つの言語を使えることによって思考の幅が広がる、ということはあります。しかし、何にせよ「きちんと考える」「考えに基づいて行動する」ということをしていないと、何語でしゃべろうが中途半端で、「聞くに値しない」と評価される結果に陥ってしまうかもしれません。

逆に「話したい内容」を持っている人は、ゆっくりであれ、少々の不自然さはあれ、話を聞いてもらえるものです。そして、そのときに感じた「違和感」「不全感」は、その後の言語学習に対する大きなモチベーションとなります。私は語学留学をしたことはありませんが、国際的なプロジェクトに参加したり、外国人を自分のプロジェクトに巻き込んだり、ということを通して、今は不自由なくコミュニケーションを取ることができます。でもその根本は、「外国人に話したいこと」「外国でやりたいこと」がある、ということです。それがないと、易きに流れて続かないもんです。私たち日本人は幸い、日本で暮らす上で外国語を必要としません。ですから、日常生活の中にその必要性をつくる、ということはとても難しいんですね。だからこそ、「世界」を視野に何かを考えている人は、意識してその「何か」をもち、それを実行するために努力する、という習慣をもつことをおすすめします。

今回のギリシャ訪問で、一層言語習得に対するモチベーションが上がりました。言語習得の必要性については、日を改めてまた共有したいと思います。

国際人

国際人ってなんだろう?

国際人を尊ぶ傾向

先日母校の長崎大学で開かれた、「グローバル人材育成プログラム」のプレゼンテーション大会で、講演をさせてもらいました。テーマは、「国際人を目指す人達へのメッセージ」という、何とも大それたテーマで話をさせてもらいました。

講演の様子はYouTubeで見ることができます(後半6分くらい)。

http://youtu.be/kqftN9_IHFQ

昨今政府の支援もあって、全国的に「世界に打って出る人材」「世界を舞台に活躍できる人材」を育てるプログラムが盛んです。それをグローバル人材といって、「グローバル」「国際」という言葉もよく耳にするようになりました。技術が革新し、世界が昔より近くなった今、そのような考え方や試みが出てくることは自然で、様々なレベルで議論がされています。

毎度のパターンで恐縮ですが、果たして私たちの「ものの見方」はそれに伴って進歩しているのでしょうか?

グローバル、国際、NGO, NPO

グローバル人材、グローバル企業、グローバルビジネス
国際人、国際NGO(手前味噌ですが)、国際会議

色々な場面でこの国際・グローバルという言葉が使われます。また、国際的な活動をする人、広く社会に貢献する人たちはNPOやNGOで活動していることが少なくありません。そして何だかブランドめいた、ちょっとした憧れをもって語られることも多いです。でもそれって、そんなに「特別」なことなんでしょうか?


例えば町内会のゴミ拾い活動があります。それを何と呼びますか?「町内会の活動」です。しかし、それを全国で”活動”として展開すれば“NGO”と言ったり、その公益性を強調すれば“NPO”と言ったりします。やってることは同じゴミ拾いです。活動範囲や重視するものはどうあれ、それは”自分たちが住む地域”のためにやっている大切な活動だと思います。でも、昨今の流れを見ると、どこか広く展開したり公益性を重視したりすること、NGOと呼んだりNPOと呼んだりすることに何らかの「価値」を見出だし、自然なスタンスで地味にやることを「かっこ悪い」とか「損してる」とかいう風に低く評価する傾向があるように思えます。

例えば実家の隣にある八百屋さんのやってる仕事をなんと言いますか?「八百屋」です。でもその八百屋さんの店舗が拡大して、県内にチェーン店舗を展開すると、「中小企業」と呼ばれます。お隣の国に支店を出すと、「国際的にビジネスを展開する会社」と呼ばれ、いくつかの大陸に支店を出して、流通まで手がけると、「グローバルビジネス」と呼ばれる。やってることは同じ「野菜を売る商売」です。それを必要とする人達のための大切な生産活動です。でも、商売の範囲や複雑さが異なると、呼び方が変わり、その価値まで異なるかのように思われる。

そんな傾向が私たちにはあるような気がします。
一言でいうと、「言葉の中身を深く考えない癖」です。
それが色々な部分で弊害を生んでいるのではないか、というのが僕の意見です。

グローバル、国際という言葉だって、語源から考えれば全然違う言葉だけれど、同じような意味で使うことがほとんどで、あまりその中身について論じません。国家の存在を前提とし、国と国のキワ(間がら)を考えるのが国際であるのに対し、グローバル(globe:地球)は、国境を意識しません。でも、世界から国家がなくなったわけでも、一つの国が統一国家をつくったわけでもありません。世界は国と国との競争であり、その上に個々の競争がのっかっている、というのが実情です。


言葉の中身を考える習慣

既存の競争概念にのっとり、その中での優劣を競う、という感覚で国際人を語るなら、それはただ、収入が高いとか、外国語が話せてかっこいいとか、そういうことなんだと思います。あるいは日本の強さや素晴らしさを世界に示す、というナショナリスティックな意味を付加することもあります。

それが悪いというわけではないのですが、冒頭に述べたように、これだけ世界が近くなって、グローバルだとか国際だとかいうことを大切にしていくというなら、もう一歩踏み込んで考えてみてもいいのかな、と思います。例えば、「”国内ではできない何か”をやるために外国で頑張る人」とか、「技術的に近くなった世界を、本質的に次のステージに進めるために貢献する人」とか、”国際”という言葉の中に、何か夢や未来を感じるような思考があると、その言葉は活き活きとした”意味”を持ち、健全なモチベーションや評価につながると思います。

他の言葉も一緒で、言葉の意味を、既存の競争概念の中での価値だけで考えず、夢や未来を付加して考えることは、毎日の生活を活気づけるきっかけにもなります。子供のころ私たちはみんなそうだったのでは?大人になると色々と考えなきゃいけないことが増え、きれいごとじゃない部分がたくさんあることを知り、どうもそういう思考が苦手になってしまう傾向があるように思えます。もちろん何でもかんでも「元気があれば何でもできる」と言えばいい、というわけではないのですが、私たちが言葉を使って思考する人間である以上、言葉の使い方、言葉の捉え方を見つめてみる、というのはとても大切なことのように思えます。

今からギリシャです。「ソーシャルメディアと社会」というテーマで講演してきます。
その様子も追って紹介できればと思います。

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考えることの大切さ

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食べて、出して、寝る

医師は生物学を学びます。人間を含む動植物について勉強します。
生物学上、人間は動物であり、動物である以上は他の生物を食して生きます。
また、有性生殖を行う生物でもあり、交配して子孫を残します。
また、高次の機能を有する脳を持ち、その維持に睡眠が必要です。

この3つが生きる上で不可欠であり、それを追及するように私たちはプログラムされています。
私たちが毎日行っていること、「食べて、出して、寝る」は、人間が動物として生きていく上での必須の行動なんですね。

さらに、3欲には数えられませんが、生物は生きる上で「生存競争」を常に行っています。
3欲に加えて、「競うこと、闘うこと」は、生物の根幹をなす行為だといえるでしょう。

すなわち、
食:おなかいっぱい食事をすること
闘:生存競争に勝つこと
性:しっかりと子孫を残すこと
眠:安全な場所で寝ること
を行っていくのが、動物としての生活、という風に考えられます。

思考はとても人間らしい行為

一方で、「考える」という行為は、そのどれとも異なる行為です。

今日のお昼は親子丼が食べたいなあ
今度のテストでは20番以内に入りたいなあ
○○さんとデートしたいなあ
明日はゆっくり8時間くらい寝たいなあ

行為の対象は目の前にありません。頭の中で抽象概念として想像しています。
これは人間以外の動植物にはほとんど見られない行為です。

この「抽象概念を操ること」が可能なのは、人間が「言語」をもっているからです。
単純な行為を要求するような音声は他の動物も発します(例えば「あっちいけ」など)。
でも、「3丁目の茅野さんに、この回覧板を渡して、印鑑をもらってきて」という情報は、言語のない他の動植物には(現時点で我々が認識できる範囲では)伝えることができません。

そういう意味で、「言語」を使って抽象的な思考をする、という行為は、きわめて人間らしい行為だといえるでしょう。

思考にも色々ある

ただ、抽象的な思考ができるからといって、他の動植物よりも優れた存在である、というわけではないでしょう。上に挙げたような思考は、最初に述べた「食・闘・性・眠」の4つを求める思考です。普通に動物も持っている衝動をただ言葉にしただけ、と言えるでしょう。動物の場合はその対象が目の前にあることがほとんどであるのに対し、人間は目の前になくてもいい、というだけです。

そう考えると、私たちの普段の思考は、ほとんどがこれらに帰着することばかりではないでしょうか。

朝起きて、学校・仕事に行く。実用知を学び、生業に励む。 動物が狩りをするのと変わりません。
昼食を食べ、友人とコイバナをする。 食・性にまつわる思考がほとんどでしょう。
学校・仕事が終わり、友達と遊ぶ・飲みに行く。 思考していないことが多いでしょう。
帰ってお風呂に入って、歯を磨いて寝る。

この日常生活に「人間ならではの高度な思考」を見出すのは難しそうです。

TVやラジオ、インターネットのおかげで、情報は瞬時に広範囲にいきわたります。
交通機関の発達のおかげで、今や人間は地球全体どこにでもすぐに移動することができます。
パソコンのおかげで、映像や音響を駆使して様々な作業をすることができます。

しかし、その使い道は何なのか。お金をかせぐため、3欲を満たすため、競争で勝つため・・・
高等動物である人間ならではの使い方をしているのでしょうか・・・

ロメウスイッチは、この「思考」について深く考えるきっかけをつくることを目標の一つにしています。
記事をご覧の皆さんにとっても、ロメウスイッチが、思考をスイッチするきっかけになれば幸いです。

今日はこの辺で。この記事の続きは日を改めて共有します。

最後にこの記事の表紙にもなっている小林秀雄の言葉を引用して終わります。

僕らはいま月にいけるでしょう。科学の方法が僕らを月に行かせているのです。それは、僕らが行動の上において、非常に進歩をしたということです。けれども、僕らが生きてゆくための知恵というものは、どれだけ進歩していますか、例えば論語以上の知恵が現代人にありますか。(信ずることと考えること)