作成者別アーカイブ: 茅野龍馬

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言語と思考

ハマド国際空港

ドーハから投稿です。ハマド国際空港は、カタールの新しい玄関で、とても機能的な空港です。カタールは、アジア、ヨーロッパ、アフリカの中継地点として、ドーハの空港に昼夜を問わずたくさんの旅客が出入りします。そのドーハに新拠点「ハマド国際空港」ができ、今回のギリシャへの旅でも使わせてもらいました。トランジット(乗り換え)の人がほとんどなので、空港のつくりはシンプルです。中心に色んなレストランやお店が集まるスクエアがあって、そこから放射状に各ターミナルへの道がつながる。手荷物検査の内外にお店があり、外がショッピングモールのようになっていて、中は売店がメイン、という日本の空港とは趣を異にするつくりです。

スクリーンショット 2014-10-02 10.17.00巨大な電光掲示板とテディ?ベア。手前には車が”DUTY FREE”で展示されています。

石油で潤うカタールらしい、贅沢なお店も見かけました。ロンドンを拠点に世界に支店を持つキャビア専門店、「Cavia House Purnier」です。「砂漠なのにシーフードかよ!」と言いたくなるくらい、伊勢エビ(ロブスター)、牡蠣、サーモン料理、そしてキャビアがずらりと置いてありました。お値段も通常の食事とは一桁違う出費を要するものばかりでした。フライトまで時間がなかったこともあり、メニューだけ見て素通りしようかと思いましたが、手頃に食べれるメニューもあって誘惑に負け、キャビアスプーン1杯(5g,約1500円)を注文し、キンキンに冷えたウォッカと一緒に食べました。新鮮な刺身と日本酒のような”絶妙な組み合わせ”だと感じました。もし旅行帰りに外貨が少し余っていたら、一度立ち寄られてはいかがでしょうか?間違いなくハマドで一番ステキなレストランの一つだと思います。

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言語と思考

さて、本題に入ります。今回参加したRhodes Youth Forumでは、とにかくたくさんの議論をしました。世界が直面する諸問題について、それこそ世界中から集まった人達が知恵を出し合って解決策を考えたり、それをもとにプロジェクトを立ち上げたりする、とてもアクティブな場でした。プロジェクトを申請しないといけない、という縛りがあるので、日本からの参加者は今回私ひとりだけでしたが、周囲の友人知人にも伝え、来年はこの”あたり前”をひとりでも多くの仲間と共有できればと思っています。

その中で一つ強く感じたのは、「使っている言語は違えど考えていることは一緒だ」ということです。私たちは日本語で思考し、日本語で話をします。外国人も一緒で、母国語で思考し、母国語で話をします。あたり前のことですが、外国にいくと忘れがちなことの一つでもあります。外国人と英語でコミュニケーションをとるとき、言いたいことが英語で言えなかったり、きちんと伝えられなかったりすると、「自分は相手より劣っている」とか「相手の方がものを知っていてよく考えている」ように感じてしまうことが多いのではないでしょうか?

でも、よく耳を傾けてみると…自分も考えたことがあるようなこと、普通にロジカルに考えれば出てくること、をハキハキと語っている、ということが多いです。むしろ東洋文化がベースにある私たちは、思考のバリエーションという意味で、ロジックと正義を基軸とする西洋の人達にはない視点を持っていることも少なからずあり、議論の幅を広げたり、解決策の種類を増やしたり、という部分に大きく貢献出来ると感じています。

表題の写真は私の参加したグループディスカッションの様子です。たまたまロシア・旧ソ連の人が多く、英語と一緒にロシア語が飛び交っていました。ロシア語はほとんどわかりませんが、間に入る英語や、司会の通訳で大体の内容を理解しながら議論しました。自己主張が強い人が多く、議論はときに本題からそれて盛り上がりを見せることも多かったです。そういうとき、私たちの感覚は、「ちゃんとお題に答える話し合いをしよう」と考えるものです。実際にそれを言うと、みんながハッと我に返る、ということもしばしば見かけました。

思考の大切さ

よく一緒に国際交流やプロジェクトをやる仲間と、「英語より日本語が大切」という話をします。母国語が日本語である以上、日本語による思考で到達した内容以上のことを、英語で表現できることはほとんどないからです。もっとかみ砕いた言葉で言うと、「日本語で大したことを言えない人は、英語でも大したことは言えない」。何語で話すにしろ、それなりのことを考えて行動していないと、どこに行ったって相手にされないものです。

最近は語学留学で半年や一年、アメリカやカナダに行く人も増えています。そこで英語がスムーズに話せるようになって帰ってくる。でも、言っていることの質が飛躍的に上がった、という人は見たことがありません。むしろ日常会話にやたらと横文字を混ぜるようになったり、何かとと英語を使ってみせたり、という何とも決まりの悪い癖を身につけてしまう、ということが目立つように思います。もちろん、2つの言語を使えることによって思考の幅が広がる、ということはあります。しかし、何にせよ「きちんと考える」「考えに基づいて行動する」ということをしていないと、何語でしゃべろうが中途半端で、「聞くに値しない」と評価される結果に陥ってしまうかもしれません。

逆に「話したい内容」を持っている人は、ゆっくりであれ、少々の不自然さはあれ、話を聞いてもらえるものです。そして、そのときに感じた「違和感」「不全感」は、その後の言語学習に対する大きなモチベーションとなります。私は語学留学をしたことはありませんが、国際的なプロジェクトに参加したり、外国人を自分のプロジェクトに巻き込んだり、ということを通して、今は不自由なくコミュニケーションを取ることができます。でもその根本は、「外国人に話したいこと」「外国でやりたいこと」がある、ということです。それがないと、易きに流れて続かないもんです。私たち日本人は幸い、日本で暮らす上で外国語を必要としません。ですから、日常生活の中にその必要性をつくる、ということはとても難しいんですね。だからこそ、「世界」を視野に何かを考えている人は、意識してその「何か」をもち、それを実行するために努力する、という習慣をもつことをおすすめします。

今回のギリシャ訪問で、一層言語習得に対するモチベーションが上がりました。言語習得の必要性については、日を改めてまた共有したいと思います。

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ギリシャ Rhodes Youth Forum

国際アイディアコンテスト

ギリシャから投稿です。表記のRhodes Youth Forumは、5年前にヨーロッパで始まった企画で、世界中の若者がアイディアを競うコンテストです。毎年9月下旬〜10月上旬にギリシャのロードス島で開催されます。参加者はまず申請書類(履歴書・企画書など)を記載し、自身の企画についてのプレゼンテーションをビデオに撮ったものを添えて申請します。選考に通れば、旅費の一部に援助を受ける形で、ロードス島での選考会に参加することができます。選考に通らなかった場合も、見学者としての参加を受け付けています。選考は3〜4つのテーマ(毎年そのときの世界情勢によって変わります)にわかれており、各テーマ10〜20名、計50名程度がアイディアを競います。優勝者にはそのアイディアを形にするための賞金が出ます(最高150万円程度)。

今年のテーマは
Modern Learning Environment (教育・学習環境)
Youth Diplomacy and International Relations (外交における若者の役割と国際関係)
Social Enterpreneurship(社会的起業)


の3つで、見学者も含め、45ヶ国から100名程度の若者(20代〜30代)が参加しています。

私は去年のフォーラムで自身の国際企画を発表し、今年はその継続をテーマに講演を、ということで、ロードス島に来ています。とても綺麗な場所で、歴史もあって(7世紀ころのギリシャ文化)、ヨーロッパ中から観光客の来るリゾート地です。もし機会があれば、一度立ち寄られていはいかがでしょうか?

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国際交流としての意味

3つのテーマ全ての発表を拝見しましたが、参加者は皆、自身のアイディアを形にしようと熱気がこもっています。中には緊張して声がうわずったり、英語が母国語でないために質問の意味がわからず答えられない、というハプニングも認めますが、同年代の若者が、文字通り「切磋琢磨」する、エキサイティングな場です。

アイディアはそれこそ玉石混淆で、「中高生の自由課題かな」というものから、「国全体・世界全体を次のステージに進める」という意志や可能性を感じさせるものまで様々です。

こういったコンテストのいいところの一つは、参加者どうしが、”お互い頑張って競い合った仲間”という意識を持っているので、国をこえ、民族をこえて、深い交流ができるところだと思います。私も昨晩はセルビアからの参加者と、それぞれの国の問題やその共通点、市民社会とプロパガンダ、自身の生きる意味など(書いていて少し恥ずかしいですが)について、夜も遅くまで語り合っていました。互いの歩んできた人生に深く共感する部分があると、1時間も話せば旧知の仲のように打ち解けられる、ということを強く感じる貴重な機会でした。

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それとは別にRYF(Rhodes Youth Forum)のいいところは、音楽やダンスを大切にするところです。数名の参加者はプロのアーティストで、発表もしますが、初日のウェルカムパーティーでは演奏もしてくれます。ほとんどの参加者は初対面なので、初めは知らない顔ばかりなのですが、演奏を聞き、お酒を飲み、一緒に踊っている中でいつの間にか友達になっているんですね。そのとき仲良くなった人達とは、コンテストの間一緒に過ごすことが多くなるもんで、いわゆる“いい友達”が自然とできている。教授も社長も政治家も、医者も弁護士も芸能人も、学生でも無職でも、つまり自身が何者でも、“何かをもって”そこに参加していれば、対等に尊敬し合う仲間だし、歌ったり踊ったりする中では肩書きは関係なく、人間と人間の付き合いができるところも魅力のひとつです。

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刺激的な講演

コンテストは3日間にわたって行われますが、競技自体は最初の1日で、2日目3日目はワークショップや講演がメインです。国際交流や起業、イノベーション、などをテーマにコンテストをするわけですから、講演するゲストもいわゆる「成功者」の人達で、世界展開するビジネスを手がけている人、著名な作家、高名な学者がほとんどです。そういう人達が3日間の間で何度もパネルディスカッションを行い、コンテストの進行に伴って、「これでもか」というくらい、たくさんのアドバイスを若者に伝えます。会場からもどんどん質問が出て、質問から議論が生まれ、いくら話しても話足りない、という雰囲気の中でひとつのセッションが終わり、休憩をはさんで次のセッションへ、と・・刺激的で充実した時間を過ごすことができます。

今回とても印象に残ったゲストは
Peter Löscher(オーストリア人)という方で、世界的製薬会社の社長です(wikipedia参照)。
ひとつひとつの言葉に重みがあり、またとても気さくな方で、会議のときはもちろん、食事やパーティーのときも、自然体で話ができるジェントルマンでした。

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フォーラムの様子は近いうちに動画で編集してYouTubeで紹介します。
今日は彼の言葉で、すごく感動したものを紹介して終わろうと思います。

Never ever compromise your personal integrity
自分自身(の理念、誠実さ)に妥協しないこと。

You are respected when you respect others.
You are trusted when you trust others.

人を敬うから自分も大切にされる。人を信じるから自分も信用される。

Be competent and confident
努力をしなさい(有能であれ)。そして誇りを持ちなさい。

国際人

国際人ってなんだろう?

国際人を尊ぶ傾向

先日母校の長崎大学で開かれた、「グローバル人材育成プログラム」のプレゼンテーション大会で、講演をさせてもらいました。テーマは、「国際人を目指す人達へのメッセージ」という、何とも大それたテーマで話をさせてもらいました。

講演の様子はYouTubeで見ることができます(後半6分くらい)。

http://youtu.be/kqftN9_IHFQ

昨今政府の支援もあって、全国的に「世界に打って出る人材」「世界を舞台に活躍できる人材」を育てるプログラムが盛んです。それをグローバル人材といって、「グローバル」「国際」という言葉もよく耳にするようになりました。技術が革新し、世界が昔より近くなった今、そのような考え方や試みが出てくることは自然で、様々なレベルで議論がされています。

毎度のパターンで恐縮ですが、果たして私たちの「ものの見方」はそれに伴って進歩しているのでしょうか?

グローバル、国際、NGO, NPO

グローバル人材、グローバル企業、グローバルビジネス
国際人、国際NGO(手前味噌ですが)、国際会議

色々な場面でこの国際・グローバルという言葉が使われます。また、国際的な活動をする人、広く社会に貢献する人たちはNPOやNGOで活動していることが少なくありません。そして何だかブランドめいた、ちょっとした憧れをもって語られることも多いです。でもそれって、そんなに「特別」なことなんでしょうか?


例えば町内会のゴミ拾い活動があります。それを何と呼びますか?「町内会の活動」です。しかし、それを全国で”活動”として展開すれば“NGO”と言ったり、その公益性を強調すれば“NPO”と言ったりします。やってることは同じゴミ拾いです。活動範囲や重視するものはどうあれ、それは”自分たちが住む地域”のためにやっている大切な活動だと思います。でも、昨今の流れを見ると、どこか広く展開したり公益性を重視したりすること、NGOと呼んだりNPOと呼んだりすることに何らかの「価値」を見出だし、自然なスタンスで地味にやることを「かっこ悪い」とか「損してる」とかいう風に低く評価する傾向があるように思えます。

例えば実家の隣にある八百屋さんのやってる仕事をなんと言いますか?「八百屋」です。でもその八百屋さんの店舗が拡大して、県内にチェーン店舗を展開すると、「中小企業」と呼ばれます。お隣の国に支店を出すと、「国際的にビジネスを展開する会社」と呼ばれ、いくつかの大陸に支店を出して、流通まで手がけると、「グローバルビジネス」と呼ばれる。やってることは同じ「野菜を売る商売」です。それを必要とする人達のための大切な生産活動です。でも、商売の範囲や複雑さが異なると、呼び方が変わり、その価値まで異なるかのように思われる。

そんな傾向が私たちにはあるような気がします。
一言でいうと、「言葉の中身を深く考えない癖」です。
それが色々な部分で弊害を生んでいるのではないか、というのが僕の意見です。

グローバル、国際という言葉だって、語源から考えれば全然違う言葉だけれど、同じような意味で使うことがほとんどで、あまりその中身について論じません。国家の存在を前提とし、国と国のキワ(間がら)を考えるのが国際であるのに対し、グローバル(globe:地球)は、国境を意識しません。でも、世界から国家がなくなったわけでも、一つの国が統一国家をつくったわけでもありません。世界は国と国との競争であり、その上に個々の競争がのっかっている、というのが実情です。


言葉の中身を考える習慣

既存の競争概念にのっとり、その中での優劣を競う、という感覚で国際人を語るなら、それはただ、収入が高いとか、外国語が話せてかっこいいとか、そういうことなんだと思います。あるいは日本の強さや素晴らしさを世界に示す、というナショナリスティックな意味を付加することもあります。

それが悪いというわけではないのですが、冒頭に述べたように、これだけ世界が近くなって、グローバルだとか国際だとかいうことを大切にしていくというなら、もう一歩踏み込んで考えてみてもいいのかな、と思います。例えば、「”国内ではできない何か”をやるために外国で頑張る人」とか、「技術的に近くなった世界を、本質的に次のステージに進めるために貢献する人」とか、”国際”という言葉の中に、何か夢や未来を感じるような思考があると、その言葉は活き活きとした”意味”を持ち、健全なモチベーションや評価につながると思います。

他の言葉も一緒で、言葉の意味を、既存の競争概念の中での価値だけで考えず、夢や未来を付加して考えることは、毎日の生活を活気づけるきっかけにもなります。子供のころ私たちはみんなそうだったのでは?大人になると色々と考えなきゃいけないことが増え、きれいごとじゃない部分がたくさんあることを知り、どうもそういう思考が苦手になってしまう傾向があるように思えます。もちろん何でもかんでも「元気があれば何でもできる」と言えばいい、というわけではないのですが、私たちが言葉を使って思考する人間である以上、言葉の使い方、言葉の捉え方を見つめてみる、というのはとても大切なことのように思えます。

今からギリシャです。「ソーシャルメディアと社会」というテーマで講演してきます。
その様子も追って紹介できればと思います。

ナンバーワン?オンリーワン?


今日は「ナンバーワン」「オンリーワン」という言葉について考えてみたいと思います。


生きるって大変

現代社会はとても複雑な競争社会です。「目に見える範囲」以上のことを意識して理解していないと、この競争社会ではうまく立ち回れません。

技術も制度も高度で複雑。それをきちんと理解し、処理・利用できる人たちが、共同体や社会を動かしていく能力を評価されて、”動かす側”として、責任ある立場についたり高い給料をもらったりします。

逆に複雑で高度な技術・制度を”処理・利用できない(末端事象のみに感覚的に関わる)”人たちは、どちらかと言えば”動かされる側”に回り、前者と比べれば給料も責任も低い。

最近は社会が複雑になり、いわゆる”動かす側””動かされる側”に大きな隔たりができて、給料や評価の面でも大きな差がついているため、前者を「勝ち組」、後者を「負け組」と呼ぶことがポピュラーになってきています。

ナンバーワンとオンリーワン

その複雑な仕組みの中で、一歩先の技術を創造したり、一歩先の制度を組み立てたりして、「オンリーワン」の何かを得る人たちがいます。そういう人たちを世間では「パイオニア」と呼んだり、「天才」と呼んだりして高い評価をします。

一方で、すでにある競争体系の中でトップランナーになることも、勝者として評価されます。どちらかというと、こっちの方が一般的ですね。その種類はは色々あって、いわゆる一般的なビジネスのシーンで会社同士の競争、会社内での競争、芸能やスポーツなどにおける競争、既得権益内での競争などなど、様々です。

それぞれの競争体系の中で先に述べた「勝ち組」に回れる人の数はある程度決まっていて、その枠に収まる人数や割合が多かったり、その枠に収まるまでの道のりがある程度分析されている(運の要素が低い)ものを、「安定した業界」「安定した職業」といい、たくさんの人が競争に参加します。

逆に小さい枠の業界、勝つための道のりが広くは知られていない業界は、「運」「才能」という要素が占める割合が大きいと考えられ、この業界での「勝ち組」は前述の「オンリーワン」に近い評価をうけます。

何を目指すのか

オンリーワンもナンバーワンも、その言葉の裏には競争があります。

競争という概念を用いないならば、オンリーという必要もなく、ナンバーをつける必要もないわけです。

だから、
「人間はみなそれぞれが大切なオンリーワンなんだから、順番を競わなくていいんだ」
という言葉は、ややもすれば、すでにこの言葉の中でで自己矛盾に陥ってしまうんです。

”競争概念ですべてを評価せず、個々の尊厳が尊重される社会をつくっていきましょう”、という意味で、上の言葉には意味があります。でも、競争概念を基礎におきながら、努力もチャレンジもせずに、上の言葉の字面をなぞって、自身があたかも競争社会で勝ち残った人たちと同じかそれ以上の結果を出したかのような錯覚を覚える、という風なことになれば、本末転倒です。

ギスギスした競争社会やそれが生み出す理不尽なヒエラルキーに異をとなえるわけでも、競争の概念を弱めて調和に富んだ社会に貢献するわけでもなく、ただただ易きに流れ、つかの間の優越感を得るために、オンリーワンとかナンバーワンとかいう言葉を自分の都合で使いまわす、というのであれば、何とも悲しいことだと思います。

社会の全体像をとらえて、「個」としての自分の位置を知り、自分にできることを、きちんと理解して行う。
そのように考えると、競争があろうがなかろうが、自身で自身の役割や行動を評価することができます。
そうしたときに、「価値ある個」としての自分を認識することができ、活き活きと毎日を過ごす原動力になるのかもしれませんね。

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考えることの大切さ

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食べて、出して、寝る

医師は生物学を学びます。人間を含む動植物について勉強します。
生物学上、人間は動物であり、動物である以上は他の生物を食して生きます。
また、有性生殖を行う生物でもあり、交配して子孫を残します。
また、高次の機能を有する脳を持ち、その維持に睡眠が必要です。

この3つが生きる上で不可欠であり、それを追及するように私たちはプログラムされています。
私たちが毎日行っていること、「食べて、出して、寝る」は、人間が動物として生きていく上での必須の行動なんですね。

さらに、3欲には数えられませんが、生物は生きる上で「生存競争」を常に行っています。
3欲に加えて、「競うこと、闘うこと」は、生物の根幹をなす行為だといえるでしょう。

すなわち、
食:おなかいっぱい食事をすること
闘:生存競争に勝つこと
性:しっかりと子孫を残すこと
眠:安全な場所で寝ること
を行っていくのが、動物としての生活、という風に考えられます。

思考はとても人間らしい行為

一方で、「考える」という行為は、そのどれとも異なる行為です。

今日のお昼は親子丼が食べたいなあ
今度のテストでは20番以内に入りたいなあ
○○さんとデートしたいなあ
明日はゆっくり8時間くらい寝たいなあ

行為の対象は目の前にありません。頭の中で抽象概念として想像しています。
これは人間以外の動植物にはほとんど見られない行為です。

この「抽象概念を操ること」が可能なのは、人間が「言語」をもっているからです。
単純な行為を要求するような音声は他の動物も発します(例えば「あっちいけ」など)。
でも、「3丁目の茅野さんに、この回覧板を渡して、印鑑をもらってきて」という情報は、言語のない他の動植物には(現時点で我々が認識できる範囲では)伝えることができません。

そういう意味で、「言語」を使って抽象的な思考をする、という行為は、きわめて人間らしい行為だといえるでしょう。

思考にも色々ある

ただ、抽象的な思考ができるからといって、他の動植物よりも優れた存在である、というわけではないでしょう。上に挙げたような思考は、最初に述べた「食・闘・性・眠」の4つを求める思考です。普通に動物も持っている衝動をただ言葉にしただけ、と言えるでしょう。動物の場合はその対象が目の前にあることがほとんどであるのに対し、人間は目の前になくてもいい、というだけです。

そう考えると、私たちの普段の思考は、ほとんどがこれらに帰着することばかりではないでしょうか。

朝起きて、学校・仕事に行く。実用知を学び、生業に励む。 動物が狩りをするのと変わりません。
昼食を食べ、友人とコイバナをする。 食・性にまつわる思考がほとんどでしょう。
学校・仕事が終わり、友達と遊ぶ・飲みに行く。 思考していないことが多いでしょう。
帰ってお風呂に入って、歯を磨いて寝る。

この日常生活に「人間ならではの高度な思考」を見出すのは難しそうです。

TVやラジオ、インターネットのおかげで、情報は瞬時に広範囲にいきわたります。
交通機関の発達のおかげで、今や人間は地球全体どこにでもすぐに移動することができます。
パソコンのおかげで、映像や音響を駆使して様々な作業をすることができます。

しかし、その使い道は何なのか。お金をかせぐため、3欲を満たすため、競争で勝つため・・・
高等動物である人間ならではの使い方をしているのでしょうか・・・

ロメウスイッチは、この「思考」について深く考えるきっかけをつくることを目標の一つにしています。
記事をご覧の皆さんにとっても、ロメウスイッチが、思考をスイッチするきっかけになれば幸いです。

今日はこの辺で。この記事の続きは日を改めて共有します。

最後にこの記事の表紙にもなっている小林秀雄の言葉を引用して終わります。

僕らはいま月にいけるでしょう。科学の方法が僕らを月に行かせているのです。それは、僕らが行動の上において、非常に進歩をしたということです。けれども、僕らが生きてゆくための知恵というものは、どれだけ進歩していますか、例えば論語以上の知恵が現代人にありますか。(信ずることと考えること)

病院

医師の社会的責任2~revised:予防をすすめる意味~

仕事?社会貢献?

医師の仕事とは何か。「病気を治すこと」・・病気の知識、それを治す技術を持っていることです。それで私たちは病院やクリニックにおける医療サービスを提供でき、その対価をいただいて生計を立てています。

医師の仕事を経済活動と見ると、このように定義できると思うのですが、「医師という専門を持った個人」という観点で、社会の一員としての責任を考えると、その役割はもう少し広いような気がします。

前記事「医師の社会的責任」で述べたような、病気に対する認識や偏見へのアプローチもその一つです。また、昨今話題にのぼることの多い、「予防」へのアプローチもその一つだと思います。今日はその「予防」について触れたいと思います。

予防という考え方

私たちは病気になった人を治療します。色々な薬や器具を使ったり、手術をしたり、と治療法は様々です。医学の進歩によって、多くの病気の治療期間が短くなり、治療の見通しが立つようになりました。そういった意味で、私たちが普段遭遇する病気は「治癒(もしくはコントロール可能になる)までの予測ができる」ものになってきています。

しかし、一度病気になってしまうと、最適な手段で治療したとしても、その治癒には一定の時間と予算と労力を要します。それが「治る見込みの低い病気(進行ガンや糖尿病など)だった場合、病気にかかってから死ぬまでの間ずっと治療を続けることになり、負担も大きくなります。

それに対して、「病気にならないよう日頃から注意する」ことを勧めるのが「予防」です。


・ガンにならないよう、タバコを控えましょう。
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・糖尿病にならないよう、食生活を改善しましょう。
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・血管病にならないよう、定期的な運動をこころがけましょう。

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このような「予防」は、冒頭で述べた、私たちが生計のタネとしている「治療」とは対極にある行為です。病気になる人、特に治りにくい病気の人が増えた方が、治療対象も治療期間も増え、私たちの仕事と利益は増えます。

しかし「予防なんかしなくていいですよ、どんどん病気になってどんどん病院に来てください」とは言いません。基本的には病気から遠ざかるような言論を普段から発信していく、というのが、社会の一員としての医師の役割だと思います。

予防を勧める意味

予防は経済活動としての医療の観点からすると、顧客を減らす行為、すなわち業界の損になる行為です。でも、私たちは予防を勧めます。それは何故でしょうか?

人によって異なる部分もあるとは思いますが、経済活動をする「医療サービスの提供者」としてとは別に、「社会の一員」としての自覚があるからではないでしょうか。社会の一員として、自分たちの社会に対して責任感を持つ。「健康な人の多い社会」をよしとする。それに貢献するための知識と経験を持っているから、それを使って社会に貢献する。そういうことなんだと思います。

「健康になってほしいと思っていない人が治療をする」ってのは矛盾ですよね。でもみんなが健康になると仕事はなくなるんです。理想的な形は、普段から予防についての知識や経験を社会に還元して社会全体の病気が少なくなり、そうはいってもなってしまう病気はあるから、その部分を医療サービスを提供して治療・コントロールする、というものでしょうか。

そうなると医療サービスの提供者の数についても論議する必要がありそうで、それは資格を毎年どれだけ発行するか、という問題にもつながり・・・このへんで「複雑だから考えたくない」と言いたくなっていまいますね。政治・社会は常に生活や仕事と関わっているけれど、考える問題が大きくなってくると情報量が増えて面倒になる。でも、やはり少しずつでいいから考えていく、というのが大切なんでしょうね。

次回は「医療と情報」というテーマで、カルテ開示や医師の記録・説明などについて触れたいと思います。

病気って?

医師の社会的責任~病気って何だろう~

医師の仕事

医師は、「病気を治す」のが仕事です。
そしてその「病気」は、“社会生活を営む上で有用性の低い少数派”と言い換えることができます。
例えばIQ(Intelligence Quotient : 知能指数)。IQが高いのも低いのも、統計的にみれば“異常”です。
でも、IQが高い人を病気とは言いません。逆にIQが低い人は、「精神発達遅滞」という診断を受けます。

色々な病気を“数“ “有用性”という観点で見てみる


咳が出すぎると苦しいです。
病院に行ったり薬を飲んだりします。
咳が一生の間全く出ない、という人がいたら、普通ではありません。
でも、生きていく上で問題がないので、敢えて病気とはいいません。
もし、世界中でたくさんの人が、咳が出て止まらない、ということがあったら、未知のウイルスの存在などを考えて大騒ぎです。

骨の強さ
脆い人は「骨粗鬆症」という診断をうけます。
強い人は「骨太」と言われてむしろほめられます。
でもそれは、あくまでも“一般的に想定される範囲内”の話で・・・
車にはねられても銃で撃たれても骨が一切傷つかない人がいたら、「同じ人間でない」可能性を考慮され、大騒ぎです。

記憶力
他の人と比べて悪すぎると「記銘力障害」と言われたり、他の症状もあると「認知症」と言われたりします。前述のIQの低さも合わさると、「知的障害」とか「精神発達遅滞」とか言われることもあります。
良すぎる場合はほとんど問題とされませんが、他の障害が伴う場合は「サバン症候群」などの診断がつけられることもあります。


このように、少数・多数、有用・無用、という観点で眺めてみると、何を私たちが病気として、それをどういう基準でそう判断しているか、ということが少し浮き彫りになってきます。

偏見と競争

ある側面が少数派に属し、それが社会にとって有用と認められないがために、「病気」と言われる。
そういう例が、私が扱う精神科領域ではたくさんあります。
世論はそれを「我々とは違う人間」という扱いをしがちだし、それに伴って差別が行われることもしばしば。医療現場でさえも、偏見をもって患者さんと接する人が少なくないと思います。

精神科領域に限らず、「病気」は、「避けるべきもの」「治すべき、正常でないもの」と扱われ、患者さんは否応なしに、自身のもつその側面を嫌い、それを持っていることを不運・不幸だと考えなければならない、という空気の中に入り込みます。
もちろん、すぐに治るものであればそれでもいいのですが、そうでないものの場合(例えばガンなど)、それを嫌い、避けようとしてもどうしようもないことが明らかになると、諦め、受け入れなければならない局面に立たされます。

そのときに方向転換をするのは、かなり大変で、できる人とできない人がいます。

中には心を病む人もいます。

こういった不幸や差別の根本にあるのは、「生きる」「生存競争で勝つ」ことを是とし、それ以外を非とする考え方・・もう少し言葉を付け加えると、「健康」と「病気」を”同じ価値をもった多様性の一つ”とは考えない、「勝者」と「敗者」を”同じ価値をもつものの一側面”とは考えない、そういう考え方です。

だから病気は悪だし、その基準は「競争社会における有用性」を軸に持たざるをえないわけです。

病気って何だろう?

病気って?
私たち医師の社会的責任の一つは、こういった全体像を、患者さんやその家族、ひいては社会に提供し、「病気」と言われる人たちを追い詰めない社会づくりに貢献することだと思います。

しかし、病気を「それもひとつの価値だ」とは言いにくいし、無責任にそんなことを言ったら逆効果であることがほとんどでしょう。また、生業としての医業を考えたときに、「それをいっちゃあ商売あがったりだ」という部分もあります。病と闘うこと、病のない幸せな社会づくりに貢献することが医師の役割であり、それで私たちは生計を立てているからです。
医師ならだれでも「治したい」と思うし、「病気は敵だ」と思うものです。そして誰がより効率的かつ効果的な治療ができるか、ということを競いたくなるものです。

しかし、それが行き過ぎるとどうでしょう?
ほんのちょっとの「差」を病気といい、治療を施す。治療の的確さやそれにかかる時間にも、ほんのちょっとの「差」を見つけて、医師の優劣を競う。病は”心身をむしばむもの”としての意味合いから、”医術の競争ツール”になってしまうでしょう。患者さんもそれにつられて、もっと早く、もっと細かく、と刺激的医術を求める。病気があると「負けた」ような気になる。

その積み重ねが、今のように病人に厳しい「社会のムード」をつくっていくのではないでしょうか?

本来病気は、(人生の中で絶対に何度かは)「あって当たり前」のもののはずです。そして人が死ぬ以上は、治らない病気に出遭うことも「あってしかるべき」なはずです。しかし、医術の発達によって、治せる病気が増え、「ないのが当たり前」になって、治らない病気があることを忘れ、いつの間にか死が必ず訪れることすら忘れてしまっている・・ような側面があるような気がします。


私たちの役割

競争社会は敗者に厳しい社会です。競争をやめることは難しい。でも、何も考えずに弱肉強食を推し進めることが是だとは思えないし、その考え方に従って、”競争に弱い部分”を「病気」といい、その側面をもった人を「病人」といって差別するような空気をつくることが医師の仕事だとは到底思えません。

大切なことは、「人生の全体像」「社会の全体像」を個人がそれぞれに持ち、その中で「病」や「死」を”あるもの”として捉えて、普段から考えておくことだと思います。それこそが、「健康な人生」を歩むための習慣じゃないか、と一医師として感じます。病を治すと共に、健康な人生を歩むサポートをする、それも医師の社会的責任なのだろうと思い、今日も病院に行きます。

この記事が、ご覧になっている皆さんにとっても、「病気とは何か」「競争の必要性と弊害」「有用・無用とは何か」ということについて、少し振り返って考え、自分なりの解釈を持つきっかけになったら、医師として嬉しいです。