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医師の社会的責任2~revised:予防をすすめる意味~

仕事?社会貢献?

医師の仕事とは何か。「病気を治すこと」・・病気の知識、それを治す技術を持っていることです。それで私たちは病院やクリニックにおける医療サービスを提供でき、その対価をいただいて生計を立てています。

医師の仕事を経済活動と見ると、このように定義できると思うのですが、「医師という専門を持った個人」という観点で、社会の一員としての責任を考えると、その役割はもう少し広いような気がします。

前記事「医師の社会的責任」で述べたような、病気に対する認識や偏見へのアプローチもその一つです。また、昨今話題にのぼることの多い、「予防」へのアプローチもその一つだと思います。今日はその「予防」について触れたいと思います。

予防という考え方

私たちは病気になった人を治療します。色々な薬や器具を使ったり、手術をしたり、と治療法は様々です。医学の進歩によって、多くの病気の治療期間が短くなり、治療の見通しが立つようになりました。そういった意味で、私たちが普段遭遇する病気は「治癒(もしくはコントロール可能になる)までの予測ができる」ものになってきています。

しかし、一度病気になってしまうと、最適な手段で治療したとしても、その治癒には一定の時間と予算と労力を要します。それが「治る見込みの低い病気(進行ガンや糖尿病など)だった場合、病気にかかってから死ぬまでの間ずっと治療を続けることになり、負担も大きくなります。

それに対して、「病気にならないよう日頃から注意する」ことを勧めるのが「予防」です。


・ガンにならないよう、タバコを控えましょう。
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・糖尿病にならないよう、食生活を改善しましょう。
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・血管病にならないよう、定期的な運動をこころがけましょう。

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このような「予防」は、冒頭で述べた、私たちが生計のタネとしている「治療」とは対極にある行為です。病気になる人、特に治りにくい病気の人が増えた方が、治療対象も治療期間も増え、私たちの仕事と利益は増えます。

しかし「予防なんかしなくていいですよ、どんどん病気になってどんどん病院に来てください」とは言いません。基本的には病気から遠ざかるような言論を普段から発信していく、というのが、社会の一員としての医師の役割だと思います。

予防を勧める意味

予防は経済活動としての医療の観点からすると、顧客を減らす行為、すなわち業界の損になる行為です。でも、私たちは予防を勧めます。それは何故でしょうか?

人によって異なる部分もあるとは思いますが、経済活動をする「医療サービスの提供者」としてとは別に、「社会の一員」としての自覚があるからではないでしょうか。社会の一員として、自分たちの社会に対して責任感を持つ。「健康な人の多い社会」をよしとする。それに貢献するための知識と経験を持っているから、それを使って社会に貢献する。そういうことなんだと思います。

「健康になってほしいと思っていない人が治療をする」ってのは矛盾ですよね。でもみんなが健康になると仕事はなくなるんです。理想的な形は、普段から予防についての知識や経験を社会に還元して社会全体の病気が少なくなり、そうはいってもなってしまう病気はあるから、その部分を医療サービスを提供して治療・コントロールする、というものでしょうか。

そうなると医療サービスの提供者の数についても論議する必要がありそうで、それは資格を毎年どれだけ発行するか、という問題にもつながり・・・このへんで「複雑だから考えたくない」と言いたくなっていまいますね。政治・社会は常に生活や仕事と関わっているけれど、考える問題が大きくなってくると情報量が増えて面倒になる。でも、やはり少しずつでいいから考えていく、というのが大切なんでしょうね。

次回は「医療と情報」というテーマで、カルテ開示や医師の記録・説明などについて触れたいと思います。

病気って?

医師の社会的責任~病気って何だろう~

医師の仕事

医師は、「病気を治す」のが仕事です。
そしてその「病気」は、“社会生活を営む上で有用性の低い少数派”と言い換えることができます。
例えばIQ(Intelligence Quotient : 知能指数)。IQが高いのも低いのも、統計的にみれば“異常”です。
でも、IQが高い人を病気とは言いません。逆にIQが低い人は、「精神発達遅滞」という診断を受けます。

色々な病気を“数“ “有用性”という観点で見てみる


咳が出すぎると苦しいです。
病院に行ったり薬を飲んだりします。
咳が一生の間全く出ない、という人がいたら、普通ではありません。
でも、生きていく上で問題がないので、敢えて病気とはいいません。
もし、世界中でたくさんの人が、咳が出て止まらない、ということがあったら、未知のウイルスの存在などを考えて大騒ぎです。

骨の強さ
脆い人は「骨粗鬆症」という診断をうけます。
強い人は「骨太」と言われてむしろほめられます。
でもそれは、あくまでも“一般的に想定される範囲内”の話で・・・
車にはねられても銃で撃たれても骨が一切傷つかない人がいたら、「同じ人間でない」可能性を考慮され、大騒ぎです。

記憶力
他の人と比べて悪すぎると「記銘力障害」と言われたり、他の症状もあると「認知症」と言われたりします。前述のIQの低さも合わさると、「知的障害」とか「精神発達遅滞」とか言われることもあります。
良すぎる場合はほとんど問題とされませんが、他の障害が伴う場合は「サバン症候群」などの診断がつけられることもあります。


このように、少数・多数、有用・無用、という観点で眺めてみると、何を私たちが病気として、それをどういう基準でそう判断しているか、ということが少し浮き彫りになってきます。

偏見と競争

ある側面が少数派に属し、それが社会にとって有用と認められないがために、「病気」と言われる。
そういう例が、私が扱う精神科領域ではたくさんあります。
世論はそれを「我々とは違う人間」という扱いをしがちだし、それに伴って差別が行われることもしばしば。医療現場でさえも、偏見をもって患者さんと接する人が少なくないと思います。

精神科領域に限らず、「病気」は、「避けるべきもの」「治すべき、正常でないもの」と扱われ、患者さんは否応なしに、自身のもつその側面を嫌い、それを持っていることを不運・不幸だと考えなければならない、という空気の中に入り込みます。
もちろん、すぐに治るものであればそれでもいいのですが、そうでないものの場合(例えばガンなど)、それを嫌い、避けようとしてもどうしようもないことが明らかになると、諦め、受け入れなければならない局面に立たされます。

そのときに方向転換をするのは、かなり大変で、できる人とできない人がいます。

中には心を病む人もいます。

こういった不幸や差別の根本にあるのは、「生きる」「生存競争で勝つ」ことを是とし、それ以外を非とする考え方・・もう少し言葉を付け加えると、「健康」と「病気」を”同じ価値をもった多様性の一つ”とは考えない、「勝者」と「敗者」を”同じ価値をもつものの一側面”とは考えない、そういう考え方です。

だから病気は悪だし、その基準は「競争社会における有用性」を軸に持たざるをえないわけです。

病気って何だろう?

病気って?
私たち医師の社会的責任の一つは、こういった全体像を、患者さんやその家族、ひいては社会に提供し、「病気」と言われる人たちを追い詰めない社会づくりに貢献することだと思います。

しかし、病気を「それもひとつの価値だ」とは言いにくいし、無責任にそんなことを言ったら逆効果であることがほとんどでしょう。また、生業としての医業を考えたときに、「それをいっちゃあ商売あがったりだ」という部分もあります。病と闘うこと、病のない幸せな社会づくりに貢献することが医師の役割であり、それで私たちは生計を立てているからです。
医師ならだれでも「治したい」と思うし、「病気は敵だ」と思うものです。そして誰がより効率的かつ効果的な治療ができるか、ということを競いたくなるものです。

しかし、それが行き過ぎるとどうでしょう?
ほんのちょっとの「差」を病気といい、治療を施す。治療の的確さやそれにかかる時間にも、ほんのちょっとの「差」を見つけて、医師の優劣を競う。病は”心身をむしばむもの”としての意味合いから、”医術の競争ツール”になってしまうでしょう。患者さんもそれにつられて、もっと早く、もっと細かく、と刺激的医術を求める。病気があると「負けた」ような気になる。

その積み重ねが、今のように病人に厳しい「社会のムード」をつくっていくのではないでしょうか?

本来病気は、(人生の中で絶対に何度かは)「あって当たり前」のもののはずです。そして人が死ぬ以上は、治らない病気に出遭うことも「あってしかるべき」なはずです。しかし、医術の発達によって、治せる病気が増え、「ないのが当たり前」になって、治らない病気があることを忘れ、いつの間にか死が必ず訪れることすら忘れてしまっている・・ような側面があるような気がします。


私たちの役割

競争社会は敗者に厳しい社会です。競争をやめることは難しい。でも、何も考えずに弱肉強食を推し進めることが是だとは思えないし、その考え方に従って、”競争に弱い部分”を「病気」といい、その側面をもった人を「病人」といって差別するような空気をつくることが医師の仕事だとは到底思えません。

大切なことは、「人生の全体像」「社会の全体像」を個人がそれぞれに持ち、その中で「病」や「死」を”あるもの”として捉えて、普段から考えておくことだと思います。それこそが、「健康な人生」を歩むための習慣じゃないか、と一医師として感じます。病を治すと共に、健康な人生を歩むサポートをする、それも医師の社会的責任なのだろうと思い、今日も病院に行きます。

この記事が、ご覧になっている皆さんにとっても、「病気とは何か」「競争の必要性と弊害」「有用・無用とは何か」ということについて、少し振り返って考え、自分なりの解釈を持つきっかけになったら、医師として嬉しいです。