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考えることの大切さ

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食べて、出して、寝る

医師は生物学を学びます。人間を含む動植物について勉強します。
生物学上、人間は動物であり、動物である以上は他の生物を食して生きます。
また、有性生殖を行う生物でもあり、交配して子孫を残します。
また、高次の機能を有する脳を持ち、その維持に睡眠が必要です。

この3つが生きる上で不可欠であり、それを追及するように私たちはプログラムされています。
私たちが毎日行っていること、「食べて、出して、寝る」は、人間が動物として生きていく上での必須の行動なんですね。

さらに、3欲には数えられませんが、生物は生きる上で「生存競争」を常に行っています。
3欲に加えて、「競うこと、闘うこと」は、生物の根幹をなす行為だといえるでしょう。

すなわち、
食:おなかいっぱい食事をすること
闘:生存競争に勝つこと
性:しっかりと子孫を残すこと
眠:安全な場所で寝ること
を行っていくのが、動物としての生活、という風に考えられます。

思考はとても人間らしい行為

一方で、「考える」という行為は、そのどれとも異なる行為です。

今日のお昼は親子丼が食べたいなあ
今度のテストでは20番以内に入りたいなあ
○○さんとデートしたいなあ
明日はゆっくり8時間くらい寝たいなあ

行為の対象は目の前にありません。頭の中で抽象概念として想像しています。
これは人間以外の動植物にはほとんど見られない行為です。

この「抽象概念を操ること」が可能なのは、人間が「言語」をもっているからです。
単純な行為を要求するような音声は他の動物も発します(例えば「あっちいけ」など)。
でも、「3丁目の茅野さんに、この回覧板を渡して、印鑑をもらってきて」という情報は、言語のない他の動植物には(現時点で我々が認識できる範囲では)伝えることができません。

そういう意味で、「言語」を使って抽象的な思考をする、という行為は、きわめて人間らしい行為だといえるでしょう。

思考にも色々ある

ただ、抽象的な思考ができるからといって、他の動植物よりも優れた存在である、というわけではないでしょう。上に挙げたような思考は、最初に述べた「食・闘・性・眠」の4つを求める思考です。普通に動物も持っている衝動をただ言葉にしただけ、と言えるでしょう。動物の場合はその対象が目の前にあることがほとんどであるのに対し、人間は目の前になくてもいい、というだけです。

そう考えると、私たちの普段の思考は、ほとんどがこれらに帰着することばかりではないでしょうか。

朝起きて、学校・仕事に行く。実用知を学び、生業に励む。 動物が狩りをするのと変わりません。
昼食を食べ、友人とコイバナをする。 食・性にまつわる思考がほとんどでしょう。
学校・仕事が終わり、友達と遊ぶ・飲みに行く。 思考していないことが多いでしょう。
帰ってお風呂に入って、歯を磨いて寝る。

この日常生活に「人間ならではの高度な思考」を見出すのは難しそうです。

TVやラジオ、インターネットのおかげで、情報は瞬時に広範囲にいきわたります。
交通機関の発達のおかげで、今や人間は地球全体どこにでもすぐに移動することができます。
パソコンのおかげで、映像や音響を駆使して様々な作業をすることができます。

しかし、その使い道は何なのか。お金をかせぐため、3欲を満たすため、競争で勝つため・・・
高等動物である人間ならではの使い方をしているのでしょうか・・・

ロメウスイッチは、この「思考」について深く考えるきっかけをつくることを目標の一つにしています。
記事をご覧の皆さんにとっても、ロメウスイッチが、思考をスイッチするきっかけになれば幸いです。

今日はこの辺で。この記事の続きは日を改めて共有します。

最後にこの記事の表紙にもなっている小林秀雄の言葉を引用して終わります。

僕らはいま月にいけるでしょう。科学の方法が僕らを月に行かせているのです。それは、僕らが行動の上において、非常に進歩をしたということです。けれども、僕らが生きてゆくための知恵というものは、どれだけ進歩していますか、例えば論語以上の知恵が現代人にありますか。(信ずることと考えること)

病院

医師の社会的責任2~revised:予防をすすめる意味~

仕事?社会貢献?

医師の仕事とは何か。「病気を治すこと」・・病気の知識、それを治す技術を持っていることです。それで私たちは病院やクリニックにおける医療サービスを提供でき、その対価をいただいて生計を立てています。

医師の仕事を経済活動と見ると、このように定義できると思うのですが、「医師という専門を持った個人」という観点で、社会の一員としての責任を考えると、その役割はもう少し広いような気がします。

前記事「医師の社会的責任」で述べたような、病気に対する認識や偏見へのアプローチもその一つです。また、昨今話題にのぼることの多い、「予防」へのアプローチもその一つだと思います。今日はその「予防」について触れたいと思います。

予防という考え方

私たちは病気になった人を治療します。色々な薬や器具を使ったり、手術をしたり、と治療法は様々です。医学の進歩によって、多くの病気の治療期間が短くなり、治療の見通しが立つようになりました。そういった意味で、私たちが普段遭遇する病気は「治癒(もしくはコントロール可能になる)までの予測ができる」ものになってきています。

しかし、一度病気になってしまうと、最適な手段で治療したとしても、その治癒には一定の時間と予算と労力を要します。それが「治る見込みの低い病気(進行ガンや糖尿病など)だった場合、病気にかかってから死ぬまでの間ずっと治療を続けることになり、負担も大きくなります。

それに対して、「病気にならないよう日頃から注意する」ことを勧めるのが「予防」です。


・ガンにならないよう、タバコを控えましょう。
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・糖尿病にならないよう、食生活を改善しましょう。
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・血管病にならないよう、定期的な運動をこころがけましょう。

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このような「予防」は、冒頭で述べた、私たちが生計のタネとしている「治療」とは対極にある行為です。病気になる人、特に治りにくい病気の人が増えた方が、治療対象も治療期間も増え、私たちの仕事と利益は増えます。

しかし「予防なんかしなくていいですよ、どんどん病気になってどんどん病院に来てください」とは言いません。基本的には病気から遠ざかるような言論を普段から発信していく、というのが、社会の一員としての医師の役割だと思います。

予防を勧める意味

予防は経済活動としての医療の観点からすると、顧客を減らす行為、すなわち業界の損になる行為です。でも、私たちは予防を勧めます。それは何故でしょうか?

人によって異なる部分もあるとは思いますが、経済活動をする「医療サービスの提供者」としてとは別に、「社会の一員」としての自覚があるからではないでしょうか。社会の一員として、自分たちの社会に対して責任感を持つ。「健康な人の多い社会」をよしとする。それに貢献するための知識と経験を持っているから、それを使って社会に貢献する。そういうことなんだと思います。

「健康になってほしいと思っていない人が治療をする」ってのは矛盾ですよね。でもみんなが健康になると仕事はなくなるんです。理想的な形は、普段から予防についての知識や経験を社会に還元して社会全体の病気が少なくなり、そうはいってもなってしまう病気はあるから、その部分を医療サービスを提供して治療・コントロールする、というものでしょうか。

そうなると医療サービスの提供者の数についても論議する必要がありそうで、それは資格を毎年どれだけ発行するか、という問題にもつながり・・・このへんで「複雑だから考えたくない」と言いたくなっていまいますね。政治・社会は常に生活や仕事と関わっているけれど、考える問題が大きくなってくると情報量が増えて面倒になる。でも、やはり少しずつでいいから考えていく、というのが大切なんでしょうね。

次回は「医療と情報」というテーマで、カルテ開示や医師の記録・説明などについて触れたいと思います。

病気って?

医師の社会的責任~病気って何だろう~

医師の仕事

医師は、「病気を治す」のが仕事です。
そしてその「病気」は、“社会生活を営む上で有用性の低い少数派”と言い換えることができます。
例えばIQ(Intelligence Quotient : 知能指数)。IQが高いのも低いのも、統計的にみれば“異常”です。
でも、IQが高い人を病気とは言いません。逆にIQが低い人は、「精神発達遅滞」という診断を受けます。

色々な病気を“数“ “有用性”という観点で見てみる


咳が出すぎると苦しいです。
病院に行ったり薬を飲んだりします。
咳が一生の間全く出ない、という人がいたら、普通ではありません。
でも、生きていく上で問題がないので、敢えて病気とはいいません。
もし、世界中でたくさんの人が、咳が出て止まらない、ということがあったら、未知のウイルスの存在などを考えて大騒ぎです。

骨の強さ
脆い人は「骨粗鬆症」という診断をうけます。
強い人は「骨太」と言われてむしろほめられます。
でもそれは、あくまでも“一般的に想定される範囲内”の話で・・・
車にはねられても銃で撃たれても骨が一切傷つかない人がいたら、「同じ人間でない」可能性を考慮され、大騒ぎです。

記憶力
他の人と比べて悪すぎると「記銘力障害」と言われたり、他の症状もあると「認知症」と言われたりします。前述のIQの低さも合わさると、「知的障害」とか「精神発達遅滞」とか言われることもあります。
良すぎる場合はほとんど問題とされませんが、他の障害が伴う場合は「サバン症候群」などの診断がつけられることもあります。


このように、少数・多数、有用・無用、という観点で眺めてみると、何を私たちが病気として、それをどういう基準でそう判断しているか、ということが少し浮き彫りになってきます。

偏見と競争

ある側面が少数派に属し、それが社会にとって有用と認められないがために、「病気」と言われる。
そういう例が、私が扱う精神科領域ではたくさんあります。
世論はそれを「我々とは違う人間」という扱いをしがちだし、それに伴って差別が行われることもしばしば。医療現場でさえも、偏見をもって患者さんと接する人が少なくないと思います。

精神科領域に限らず、「病気」は、「避けるべきもの」「治すべき、正常でないもの」と扱われ、患者さんは否応なしに、自身のもつその側面を嫌い、それを持っていることを不運・不幸だと考えなければならない、という空気の中に入り込みます。
もちろん、すぐに治るものであればそれでもいいのですが、そうでないものの場合(例えばガンなど)、それを嫌い、避けようとしてもどうしようもないことが明らかになると、諦め、受け入れなければならない局面に立たされます。

そのときに方向転換をするのは、かなり大変で、できる人とできない人がいます。

中には心を病む人もいます。

こういった不幸や差別の根本にあるのは、「生きる」「生存競争で勝つ」ことを是とし、それ以外を非とする考え方・・もう少し言葉を付け加えると、「健康」と「病気」を”同じ価値をもった多様性の一つ”とは考えない、「勝者」と「敗者」を”同じ価値をもつものの一側面”とは考えない、そういう考え方です。

だから病気は悪だし、その基準は「競争社会における有用性」を軸に持たざるをえないわけです。

病気って何だろう?

病気って?
私たち医師の社会的責任の一つは、こういった全体像を、患者さんやその家族、ひいては社会に提供し、「病気」と言われる人たちを追い詰めない社会づくりに貢献することだと思います。

しかし、病気を「それもひとつの価値だ」とは言いにくいし、無責任にそんなことを言ったら逆効果であることがほとんどでしょう。また、生業としての医業を考えたときに、「それをいっちゃあ商売あがったりだ」という部分もあります。病と闘うこと、病のない幸せな社会づくりに貢献することが医師の役割であり、それで私たちは生計を立てているからです。
医師ならだれでも「治したい」と思うし、「病気は敵だ」と思うものです。そして誰がより効率的かつ効果的な治療ができるか、ということを競いたくなるものです。

しかし、それが行き過ぎるとどうでしょう?
ほんのちょっとの「差」を病気といい、治療を施す。治療の的確さやそれにかかる時間にも、ほんのちょっとの「差」を見つけて、医師の優劣を競う。病は”心身をむしばむもの”としての意味合いから、”医術の競争ツール”になってしまうでしょう。患者さんもそれにつられて、もっと早く、もっと細かく、と刺激的医術を求める。病気があると「負けた」ような気になる。

その積み重ねが、今のように病人に厳しい「社会のムード」をつくっていくのではないでしょうか?

本来病気は、(人生の中で絶対に何度かは)「あって当たり前」のもののはずです。そして人が死ぬ以上は、治らない病気に出遭うことも「あってしかるべき」なはずです。しかし、医術の発達によって、治せる病気が増え、「ないのが当たり前」になって、治らない病気があることを忘れ、いつの間にか死が必ず訪れることすら忘れてしまっている・・ような側面があるような気がします。


私たちの役割

競争社会は敗者に厳しい社会です。競争をやめることは難しい。でも、何も考えずに弱肉強食を推し進めることが是だとは思えないし、その考え方に従って、”競争に弱い部分”を「病気」といい、その側面をもった人を「病人」といって差別するような空気をつくることが医師の仕事だとは到底思えません。

大切なことは、「人生の全体像」「社会の全体像」を個人がそれぞれに持ち、その中で「病」や「死」を”あるもの”として捉えて、普段から考えておくことだと思います。それこそが、「健康な人生」を歩むための習慣じゃないか、と一医師として感じます。病を治すと共に、健康な人生を歩むサポートをする、それも医師の社会的責任なのだろうと思い、今日も病院に行きます。

この記事が、ご覧になっている皆さんにとっても、「病気とは何か」「競争の必要性と弊害」「有用・無用とは何か」ということについて、少し振り返って考え、自分なりの解釈を持つきっかけになったら、医師として嬉しいです。