当然ながら全ての紛争が裁判で処理されているのではありません。
私が弁護士として携わる事件も裁判となる案件は限られています(割合を計算してはいませんが)。

裁判となっても、多くの事案が訴訟上の和解手続で解決されています。
和解手続のメリットは、紛争が裁判手続内で終局的に解決することです。
裁判上の和解は和解調書の作成によって効力が生じ、和解条項が記載された和解調書は確定判決と同じ効力があります(強制執行をする際の債務名義となります)。
そして、三審制(一審、二審、三審)を採る民事訴訟において、和解が整えばそこで事件は終わりですが、判決となれば不服のある当事者が上訴して次の審理を求めることができます。事件は終わらないのです。

和解は双方が譲歩しなければ整わない

和解というのは双方が譲歩することです。
例えば、100万円を請求している原告と、100万円を請求されて全額を争っている被告が、審理の結果、50万円で和解するとします。原告は50万円譲歩し、被告は50万円を譲歩する。審理の結果を考慮した和解ですので、50万円となるかは分かりません。20万円となるかもしれませんし、80万円となるかもしれません。しかし、0円や100万円の和解はあり得ません。
和解では当事者は多かれ少なかれ譲歩するのです。

他の例。交通事故で怪我をした方が加害者に1000万円の賠償を求める裁判を起こした。加害者は被害者にも過失があるといって争った。過失割合を巡って審理が進み、その結果を踏まえて、双方が譲歩して和解する。

裁判にまでなった当事者が、お互いの主張する地点から相手方の主張する地点へ向かってお互いに譲歩する。このことが出来ない限り和解が成立することはありません。

和解に馴染む事件

和解に馴染む事件もあれば、そうでない事件もあります。
では、和解に馴染む事件であるのになぜ裁判なんかするのでしょうか。裁判に期待されるフェアな議論が前提となっています。民事訴訟の場面で、お互いにフェアに議論を尽くして、その結果を踏まえてお互いが歩み寄れる地点を発見できるか、それが訴訟での和解場面です。

これを裁判前にすることができれば裁判にならずに和解することができます。それには裁判所の手続によらずともフェアに議論する姿勢が必要です。

訴訟国家、権利意識
日本は訴訟国家ではない、米国は訴訟国家だなんて言います。
でも、なんとなく、日本ではフェアな議論はなかなか実現せず、米国の方がフェアな議論ができそうな感じを受けている方も多いのではないでしょうか。
権利意識という言葉も良く聞きます。日本でも権利意識が芽生えて来て、個人が何でもかんでも訴訟を起こすようになってきた、なんて危惧する意見も耳にします。

私は権利意識が高いことは別段悪いことではないと思います。お互いに権利があります。権利がある者同士が衝突するからこそ紛争になります。お互いの権利に目がいかないから紛争を解決することができません。フェアな議論をしないからお互いの権利に目がいきません。

フェアな議論をしてお互いの権利に目がいっても、それでも紛争が解決できない場面であれば、それは裁判に馴染む紛争だと思います。「裁判所で主張をし合い、証拠を出し合い、フェアに議論して、裁判官の判断を受ける」という前提のもとで解決を図るのです。どんどん紛争の実体が明確になり、紛争の質が変わってくる(感情的な議論が整理され、解決へと向かって行く)。そうあるべきだと思います。

感情を軽視するのではありません。しかし感情むき出しの議論では紛争は解決しません。そのような姿勢では相手方の権利に目を向けたフェアな議論など無理だからです。

嘘つき

以前、嘘について書きましたが、紛争の相手方に対して「嘘つき」と詰っているだけではいつまでたっても紛争は解決しないのです。

私が携わった事件でも、残念ながら裁判の結論が出ても尚紛争が解決しない事案があります。例えば裁判で敗訴しても、請求や要求を止めない方。そこには「感情」だけが燃え滾っており、自分を当事者とする当該紛争を解決しようとする姿勢が最後まで持てなかったという結論が見えてしまいます。

紛争に巻き込まれたら、それを解決しましょう。解決の瞬間は自分で意識しないと永遠に訪れないことになります。これはとても恐ろしいことだと思います。